れのん亭日乗


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2003年 1月〜


1月31日:

・時間と月日の経つことは、なんて無慈悲で残酷なんだろう

 昨夜見たNHKテレビ午後9時15分からの「にんげんドキュメント『もういぺん笑わしたる』岡八郎・再起をかけた父娘喜劇 断酒の闘い」には思わず泣いてしまった。
 
 岡八郎はボクにとっては「吉本新喜劇」の代名詞みたいな存在である。あれは1960年代、ボクが中学生の頃だったか土曜日の昼下がり、学校から帰ってテレビをだらだら観ていると何故かいつも「吉本新喜劇」をやっていたのだった。

 あの頃の主要メンバーと言うと岡八郎に船場太郎、平三平、花紀京、桑原和男などだった。

 1971年から姫路で暮らすようになって驚いたのは、毎日複数のテレビ局で「吉本」系のお笑い番組を何本もやっていることだった。九州の住民だった頃は、「吉本新喜劇」って毎週土曜日か日曜日に1回程度やっている感覚だった。
 
 70年代はじめ頃の「吉本」は間寛平と木村進の全盛時代だった記憶がある。(余談ながら、木村進は、ボクと同じ福岡県出身であり博多の伝統芸人(?)博多淡海の息子と言うことで注目していた。)

 さて、岡八郎であるが、あのころ一緒に出ていた桑原和男がいまだにテレビへの露出度がそこそこあるのに、ここ10年ばかりはボクにとって岡八郎の消息は不明だった。
 
 昨夜のテレビでようやく久しぶりにみた岡八郎は痩せてやつれて見る影も無かった。妻の自殺、息子の早逝、自身のアルコール依存、繰り返す断酒の会へ入退会。いろいろ辛いことあったんだなぁ。
 
 本番前日になってもセリフを覚えられずに自身喪失してみじめな姿をさらす岡八郎が、いざ本番の舞台では見違えるような昔ながらの「芸人魂」を見せてくれたのには大笑いと言うか、泣き笑いしたのである。
 
 あと、「岡八郎」を観る前になにげなく眺めていたテレビだったが70年代のドタバタ下品系番組「うわさのチャンネル」に出演していたシェリーが出てきた。
 
 あの頃のシェリーは欧米人の血筋をひいた美少女であった。
 
 しかし、昨夜見た彼女の容姿には、月日が経過し齢を重ねることの無慈悲で残酷な「現実」を見せつけられたのだった。
 
 老いることへの恐怖みたいなものを、昨日はテレビを観ながら感じた。



1月30日:

・黒いカバンをぶら下げて歩いていると

 イマドキ、黒いカバンをぶら下げて歩いていたとしても、おまわりさんから呼び止められたりしないのであるが、さてさて、私はユニクロの2980円の黒いショルダーバッグを愛用しているのである。以前は同じユニクロ製のカーキ色のバッグだった。

 このバッグはちゃんとノートパソコンを入れても大丈夫なクッション付きの仕切があったり、ポケットや小物入れなどがたくさん付いていてとても便利です。安いワリに造りもしっかりしてます。ま、よーするにユニクロ的なとでもゆーのでしょうか。

 日常的に持ち歩くこのカバンの中身なのであるが、ノートパソコン(iBook)、iPod、デジタルボイスレコーダ(OLYMPUS Voice-Trek V-10)、デジタルカメラ(FinePix4500)、mpeg4レコーダ(Panasonic SV-AV30)、PalmOS(WorkPad c3)、Air"H(FUJITSU AH-F401U)、 USB接続の32Mメモリースティック、手帳、扇子、折り畳み傘、予備の乾電池、血圧&咳喘息の薬、その他(筆記道具、ハンカチ、ティッシュ、鉢巻き用バンダナ等)などなどが常時入っているのである。

 より軽量な mpeg4レコーダを購入する前はデジタルビデオ(Victor GR-DVP7)を入れて持ち歩いていた。

 さすがちょっと重たいがなんとか常時持ち歩き可能ではある。こんだけはいつも持ち歩かないと外ではとても不安です。だからと言って別になにをすると言うワケではないですが、、、。

 ま、趣味と言うかお遊びと言うか上記デジタル機器の中で仕事に必要な必需品をひとつだけ挙げるとしたらWorkPad c3ぐらいでしょうか。コレが無いとスケジュール管理が出来ません。

 iBook を取り除くとずいぶんと軽くなるけど、いつもMacと一緒に居たい気持ち解ってくれるかなぁ、、、。

 本日もMacフェチなオチでした。では、では。



1月29日:


・雪景色

 我が街、北九州市では昨夜、暴風雪警報が発令され強風が吹き荒れた。
 
 朝起きるともしかしたら雪が降り積もって真っ白かと「期待」していたが全然積雪していなかった。
 
 しかしとても寒くて道路脇の水たまりが凍っていた。我がロドスタを運転して事務所に向かっている時、エンジンブレーキとシフトダウンで充分に減速してからセコンドギアでアクセルを踏み込んでクィッと左折する交差点でも水たまりが氷結していたのに気づきあわてました。
 ちょうど左側のタイヤが掛かる位置だったので、いつものようにキメていたらスピンして大恥かいていただろう。
 
 事務所に着いたのが午前8時30分くらいだったか、ほどなくして小雪がちらつきはじめたと思うと見る見るうちに積雪してしまった。積雪したと云っても実測値では1,2センチ程度だろうか。
 
 その後もずっと寒風吹きすさび、今日はクライアントさん2名が「免責審尋」だったので、ちょっと様子見に私が裁判所に出かけたのだけど、シャツ&ネクタイにカーディガン、マフラーも巻いてコーデュロイのアイビージャケットを着て、それからダッフルコートを羽織ると言うような重装備だったけど、寒くてたまらなかった。
 
 歩道のあちこちで雪だまりが凍り付いており、スッテンコロリと転ばないように気を付けながらソロソロと歩いて裁判所に向かいました。徒歩5分で到着。
 
 3階の法廷前にて本日の「免責審尋」の名簿をチェック。まだまだ「代理人=弁護士」が付いている申立が多いです。

 さて、今日は日が暮れてからの冷え込みも厳しく、道路凍結に充分注意して車の運転をしなければいけないなぁ。
 
 そんなところで、また明日。



1月28日:

・私のアルバイト歴 その7

 「アルバイトシリーズ」も途切れ途切れになってしまって申し訳ないですが、ワケわかんないかたは「過去ログ」(?)を読み返して頂ければと存じます、では。

 大学編 6回目
 
2:キャバレーのボーイ (思い出いろいろの巻)

 さて、キャバレーのボーイになったのは加古川のウエジョーのアイデアと行動力があってこそなのだが、そのウエジョーが弱音を吐いた。

 「もうアカンわ、家帰られへんし汚いしもう付いてかれへんわ。それにバスケットの合宿もあるし、ワシ辞めるさけな。」と言い出しのであった。

 ボクは夏休み中は仕送りを止められることのなっていたので、生活が掛かっており、それに、持ち前の好奇心がムクムクと目覚めて、キャバレーのボーイの仕事が正直言って面白いと感じ始めていた。

 ウエジョーに対して、今更自宅通学のボンボンじみたコト言うなっちゅーんじゃとボクは少し怒りを感じたが、ボクはウエジョーが去っても残って働くことにしたのだった。
 
 それからほどなくしてウエジョーは本当に辞めてしまった。ボーイになって1週間後のことであった。

 ウエジョーが去ってもボクはマイペースでボーイの仕事を続けた。夕方キャバレーに「出社」し、夜中はむさ苦しいキャバレーの「社宅」でひと眠りしたあと、始発のバスで下宿に戻って再び寝て、昼頃に起き出してはしばし「出社」までの時間をつぶすと言うような毎日だった。

 「公休」として1週間に1日程度、交代で休みを取ることが出来たが、ボクはほとんど休まずに働いた。

 最初の頃は、シルバーと呼ばれるお盆にビールのセット(ビールとコップ、つまみの小皿1種類)を1セット載せるのが精一杯で、それも片手だけでは持てずに恐る恐る抱えては、キャバレーのフロアーを右往左往していたのだが、1週間もすると片手で銀盆をスイスイと歩くリズムの乗せて持てるようになった。

 客が来たらマネージャーがまずボックス席に案内する。そこへタイミングよく行って「いらっしゃいませ」と言いながら客におしぼりを出すのだが、ビニールに入った木綿のおしぼりをポンと割ってさっと客が取り易いように差し出す動作もサマになるようになった。

 テーブルにビールセットを持って行くと、つまみ、コップと置いて、ビールは客の前で栓抜きしてどうぞと最初の一杯目をついであげることもスマートに出来るようになった。

 たまに客からチップを頂戴することもあった。大抵はホステスさんが「ねぇこのボーイさんにチップやってあげて」と客にせがんだりなんかしてくれた場合が多かったように思う。あの当時のチップの相場は千円札一枚程度だったがとてもうれしかったのは言うまでもない。まだ九州では百円札が流通していた頃なのであった。

 失敗もした。ビールをホステスさんのドレスにこぼしたことがあった。高そうなドレスだったので動転したが、アルバイトだけどもベテランのボーイさんが取り繕ってくれて事なきを得たのだった。ホステスさんも最初はちょっと怒っていたけど、あとは全然なにも言わなかった。とてもさっぱりしたホステスさんだった。
  
 そうやって1ヶ月も経つとボクの先輩の専業のボーイ達はひとり残らず居なくなってしまって、ボクはボーイ格のトップのヘッドボーイになってしまった。ヘッドボーイになったからと言って別にボクはボクのままなのだが、新しく入ってくるボーイ志願者に対しては一応指導的立場と言うのだろうかいろいろ「シキタリ」など教えてあげなくてはいけなくなってしまった。

 元来、他人からこき使われるのも嫌いだけど、他人にあれこれ口出しするというのも不得手なボクなのである。それに8月に入ると夏休みもあと1ヶ月、すこしは稼いだし、ここらで羽を伸ばしたい気持ちになってきた。

 次々にやってくるボーイ志願者もバラエティに富んでいた。

 ホステスの弟と云う明治大学文学部、シンナー中毒の高校生、旅行がてら働き場所を転々としながら南下してきた仙台出身の大学生、高校時代に仲間内で淋病を移し移されたあったコトを面白ろ可笑しく「解説」する丸刈りでコワモテなヒトなどなど、人間観察の相手には事欠くことが無かったのであった。

 ボクは大学生とは気があって仲良くなった。仙台の野郎はしばらくボクの下宿に居候させてあげていた。

 8月に入って間もなく「退職」の意思表示をしたのだったが、あまり良い返事を貰えなかった。再度、辞めたいと申し出るとそれは困る、仕事が終わったら「ハナシ」があるので残ってくれと怖い顔をしたマネージャーに言われたがアタマに来て、結局、仕事が終わってそのまま「自主的」に辞めてしまった。

 それからボクは、仙台出身の野郎と一緒に、シュラフとショルダーバックを抱えて、Tシャツにジーンズとサンダル履きのままで始発の列車に乗って岐阜県の片田舎に向かったのだった。

 目指すは、岐阜県坂下町の椛ノ湖のほとりで開催される第3回中津川フォークジャンボリー。

 1971年8月7日のことである。



1月27日:

・「れのん」で検索してみました。

 試しに「最速」の検索エンジンGoogleにて「れのん」と言うキーワードで検索してみました。

 結果はなんと、約1,260件中の上位ベスト4が私のホームページ関連でした。上位10件は下記の通り。自称「れのん」は全国各地に出没しておるようです。
 
1:《まぐまぐメールマガジン》れのん亭日乗
   www.mag2.com/m/0000098915.htm

2:れのん亭日乗2002年12月版
   www.j-lennon.com/etc/lennon-tei.html

3:れのん亭へようこそ:メールマガジン配信登録
   www.j-lennon.com/magmag/

4:れのん亭へようこそ:梶原行政書士事務所
   member.nifty.ne.jp/riskmg/

5:#10れのん男現る!
   www.londontown.to/homestay/diary010.html

6:食楽酒房れのん群馬県高崎市(居酒屋
   www.dan-b.com/renon/

7:如月れのん(雑誌)
   www.tosp.co.jp/ZH/TosZH100.asp?I=1MAGICIAN

8:webNAGASAKI−酒処−居酒屋・焼き鳥−居酒屋れの...
   www.web-nagasaki.net/lennon/lennon.htm

9:れのん
   www.tbs.co.jp/326/1999/lenon.html

10:れのん
   gakugeimania.tripod.co.jp/photos/lennon.html

 ところで、Netscape 4.x だとNifty に置いてある「れのん亭日乗」の今月版が正確に見えません。j-lennon.com だとネスケでも見えるのである。つい2日前に気が付きました。

 MacでもPCでもネスケの 4.x だとNifty の「れのん亭日乗 2003年1月版」の肝心な書き込み部分が消えるのである。

 Safari でもIEでも大丈夫なのになんでやろ。よく解らないです。


1月26日:

・新しいウェブ・ブラウザ

 apple が最近リリースしたMacOS-X 専用の新ウェブ・ブラウザ Safari のパブリックベータ版を現在愛用している。いいですねコレ、こういうブラウザを心待ちしていたんだなぁ。

 MacOS-X を単なるお遊びではなく本格的に日常利用するようになって20日ほど経過したが、もう旧OS9に戻ることがほとんど無くなってしまった。Windows PC とのネットワーク接続&ファイル共有も簡単であり、主要ソフトも揃ってきたこともあって業務利用でもWindows PC と遜色ないレベルで使えようになった。今やプライベートでも事務所でも一番触ることの多いパソコン(iBook & OS-X)になってしまった。

 OSXみたいな操作感覚と全体的な視覚効果が素晴らしく美しい環境を体感してみると、もう旧式OSには戻れない。( Windows XP も良いOSであり業務では常用しているが、使いやすさではやっぱりOSXです。)

 ブラウザもマイクロソフトのInternet Explorer の MacOS-X 版は、 Windows 版とは全然違うMacライクないでたちなのでMS嫌いのこの私も少し気に入って利用していた。でも動作が重いしもひとつ信頼出来ないところがあるし、対抗すべきネットスケープの新しいヴァージョンも重い上によく落ちるし、、、。

 で、今度の新ブラウザ Safari には飛びついたのである。Apple のサイトからダウンロード可能になってすぐに使い始めた。

 いわゆる iアプリ( iTunes、iPhoto、iMovie 等)と共通のメタリックな外観で格好良いと言うか要するにシンプルでクール。そして特筆すべきは、非常に高速であることであろう。 実用に足るかどうかのポイントのひとつが高速動作であるが、MSのIEよりも速いことを実感。
 次に安定性であるが今のところ大丈夫である。ただ日本語表示に多少問題はある。しかしコレはまだベータ版なのでそのうち解決してくれるだろう。

 と言うことで本日はMac殉教者としての「布教活動」の一環みたいな書き込みでした。



1月25日:

・採血の時、目を背けていたら、、、

 
昨日、血液検査の採血をした時のこと。
 
 採血の準備で腕にゴムバンドが巻かれた時から、私は顔をしかめ目を背けて採血が完了するのを待った。
 
 注射針がチクッと私の右腕(私は左利きなのです。)に突き刺さった時にはあまりの恐怖心によりいっそうのこと顔を左によじったのであるが、その時、置かれていた血圧計のモニター機器の側面が目に入った。
 
 その機器の側面に何か紙が貼り付けられていたのでよく見ると、「バイアグラ」と書かれていたのだった。
 
 そう言えば、この医院の受付には「ファイザー製薬」のノベルティみたいなのが置かれていたことを思い出した。
 
 私は採血中の恐怖心を忘れ「んっ!?この内科医院はバイアグラの処方もやるのか!」と軽い衝撃を受けた。
 
 なんとなれば、ここの院長先生は70過ぎの高齢だし、看護婦さんも50代後半のおっとりタイプと40代後半の好奇心旺盛タイプの要するにオバちゃん看護婦なのである。
 
 「バイアグラ」が必要であると言う「検診」は当然ヤルのだろうが、どうやってヤルのかふと想像してみた、、、、。やっぱりあのオバさん看護婦が、受診者のナニをナニしてナンとやらあーらやっぱりダメだ元気ないわコレなんてチェックするのだろうか、、、。それからいざ「バイアグラ」を受け取る時、調剤薬局の受付に居る白衣を着た若い女性たちは、いつものようにニコリともせずに応対してくれるのだろうか、、。
 
 素朴なギモンと想像するだにおぞましきことどもが交錯する中、無事、採血は終わった。
 
 結果を教えて貰えるのは2週間後であるが、ガンマGTPの値が気になるところではある。



1月24日:

・本日の血圧定期検診


 今日は二週間おき定例の内科医院行きでした。事務所より徒歩3分くらいのとこにある医院なので、ゆっくり歩きながら呼吸を整えて気分を落ち着かせるようにしている。

 前回、朝食を抜いてくるように言われていた。数ヶ月に一度の血液検査で血を採取するのである。

 ところで私は「注射」が嫌いである。小学校1年生の時、全然痛くないツベルクリンの注射でクラスでただひとり泣いたのがこのボクだった、、、。何故か小学校の6年間ただの一度もクラス替えが無かったのでボクは小学校を卒業するまで同級生からこの「泣き虫」の事実について繰り返しからかわれたのであった。
 
 おまけにボクはチビで、整列の時はいつも一番前から「不動」の2番目であり、背の高い女の子から「オラオラオラーーッ!!」とまるで谷岡ヤスジのマンガみたいにアタマを小突かれたコトもあった、、、、。このことがトラウマになり(以下、あまりにグジグジしすぎるので省略。)
 
 で、ナニが言いたいのかとゆーと、採血の時に注射針をブチュッと腕に突き刺されるのが今でも怖いのであり、ましてや自分の血液が注射管の中にヒタヒタと吸い出されるの見るのと本当に失神しそうになるのである。
 
 そのせいか医院に行くときも医院に着いてからも落ち着きが無く、やっぱり血圧測定では高めに出てしまったのであった。
 
 本日の血圧は、上が139、下が90、パルス68でした。

 で、薬がひとつ増えました。増えたのはフルイトラン錠2mgです。これはいわゆる「利尿剤」です。朝これを飲むと午前中はひっきりなしにトイレに立ちます。余分な水分がとれるので顔のむくみが減少するプラスの効果もあるみたい。

 正月休みは食い過ぎ飲み過ぎで体重が増え戻り、顔も太くなったので、少しは引き締まったツラになるかもね。
 
 と言うことで、また明日。



1月23日:

・蒸発旅日記

 一週間ほど前だったが、福岡県のローカル新聞である西日本新聞にて、つげ義春の「蒸発旅日記」が紹介されていたので、読み直してみた。
 
 「蒸発旅日記」は新潮文庫の「貧困旅行記・つげ義春」に収録されているので、是非、一読をお奨めしておこう。
 
 昭和43年秋、つげ義春は「蒸発」するつもりで東京の下宿屋を後にして、北九州・小倉へと向かう。
 
 蒸発と言えども目的はある。自分にファンレターをくれた女性と会って結婚する為である。
 
 その小倉の女性とはまだ一度も会ったことはない。いや、ましてや求婚したこともなく、いきなりアポ無しで小倉の女性に会いに行って結婚を申し込むと言うのである。
 
 だからブスだったらどうしようという躊躇らしき思いもあるが、一種脅迫観念的な気分で結局、小倉行きの列車に乗る。
 
 車内での「つげ」的な人間模様。活写される小倉の街の猥雑なにぎわい。
 
 小倉の女性に会うまでの間に、ふらり出かけたひなびた温泉地での猥雑でうらぶれた出来事。
 
 つげ義春的オデッセイの冥宮世界である。
 
 うーん、なんでしょうね、この絶妙な浮遊感覚。絶品の一文である。
 
 「蒸発旅日記」を読むと、なにかしら自分も「蒸発」の旅に出てみようかと言う気持ちになってしまう。



1月22日:

・私のアルバイト歴 その6

 大学編 5回目
 
2:キャバレーのボーイ (アヤしい世界の怪しき面々の巻)

 さて、軽い気分で夏休みのアルバイト探しをしたつもりが、どういうワケかどっぷりと住み込みに近いかたちでキャバレーのボーイとして働くようになってしまったのでありました。
 
 ボーイの仕事が終わったあとは、キャバレーの「社員寮」で寝泊まりすることになってしまったのであるが、「社員寮」と言っても姫路市の中心から西方に外れた住宅地の一軒家だった。そこでは正勤務のボーイ従業員が数人にマネージャクラスと系列店のバーテンダーがそれぞれ1名ずつほど居て共同生活していたのだった。
 
 共同生活と言ってもただ単に寝泊まりするだけで、仕事が終わってメシを食い、それから「寮」に戻って雑談をして、シーツも無い汚らしい布団で寝て、昼頃起きると言うだけで、自炊をするとか掃除洗濯をするなどといった基本的生活感覚とは全然無縁の場所であった。

 仕事が終わるのは深夜になり下宿に戻るバスはもう無く、ボクは寮で一応寝泊まりしたが、あの頃はまだ神経質なところがあったのでプライベートな空間が一切無いムサ苦しい場所ではゆっくり休むことが出来ず、明け方に起きて始発のバスで下宿に帰ってようやくぐっすり寝ることが出来た。

 季節は夏であったがクーラーなどはひとつも無かったので窓を開け放しにして寝るのだけど、ちゃんと網戸があったのかどうか記憶には無いが、とにかく寝ていると蚊が飛んできてうるさかったことを覚えている。ボクは手や足を蚊に咬まれると発赤してあげくには水ぶくれになるほど肌が弱いタチなので、夏なのに長袖のジャージの上下を着込んで蚊の攻撃をガードしたのだった。
 
 いわゆる先輩格と言うかボクらより以前に「入社」したボーイさんは5,6人いて、ほとんどのヒトは寮に入っていた。
 
 寮の住人は次々に辞めていくと言うかある日突然に居なくなるのだが、新しい人材も代わりに次々に流入してきた。
 
 営業の仕事をしくじって会社にも家にも居づらくなって福井県から流れてきたいかにもサラリーマン然としたヒト、大学受験に失敗して九州の家を飛び出してきた奴、どんなに落ちぶれてもボーイの仕事だけは絶対にせんどこ思うとったんやと事あるごとに愚痴る元建設作業員、事あるごとに昔の羽振りの良かった頃の自分を大げさに触れ回る「どもり」の男、気弱でいつもオドオドしているのだが右腕にまるでカッターナイフで適当に書いたような汚い字で「みち子命」と入れ墨状に彫り込んだヒト、ボクサー時代の自慢話をしながら腕をかまえジャブをかまし首を左右に敏捷に振ったりなんかする元プロボクサー、故郷の鹿児島に帰る途中に姫路の女に会いに来た元自衛隊員などなど、それまでフツーの家でフツーに育ったおぼっちゃまなボクには驚きの連続の出会いだったのである。
 
 そんな彼らが、ある日、突然、居なくなってしまうのだった。
 
 ある朝の早朝、いつものように早く目覚めたらなにやら物音がするので薄目を開けてあたりを伺ったところ、通常は遅くまで寝てるはずの角刈りのバーテンダーのあんちゃんがそそくさと身繕いをして出て行くのが見えた。手にはなにひとつ荷物を持っていなかった。しかし、彼はもう二度と姿を現さなかった。

ーー うーん、今日はこれぐらいで勘弁してください。続きはまた ーー



1月21日:

・ちょっとひと休み

 えーっと、あんまり「バイトネタ」で引っ張るのもナンだし、あたいも飽きっぽい性格なので「バイトシリーズ」の続きは後日ということで、今日は気分転換してみよう。
 
 そう言えば1週間ほど前は「成人の日」だったんだなぁ。自分は成人式には出なかった。あの頃、成人式なんて言う「官製」のお仕着せイベントなどは唾棄すべきものだと考えていた。
 
 ボクが入学した姫路工業大学は、ボクが二十歳の秋から翌年にかけて、全学無期限ストライキに突入していた。
 
 高野悦子の「二十歳の原点」を所有しているのを先輩に見つかった時、えらく馬鹿にされたな。あの本に出てくるMと言う人物は、オルグとして姫路工大の学生会館に常駐していたMと同一人物だというウワサだった。
 
 ボクが出席しなかった「成人の日」からほどなくして、連合赤軍による「浅間山荘事件」があり、つかの間の熱狂の後、白日に晒された「同志大量粛清事件」の現実に打ちのめされた。
 
 でも、お袋がお祝いのつもりなのか新品の腕時計を送ってくれたのは、うれしかったのを覚えている。その時計も、それから間もなくバイクで転倒したときに傷つけてしまったけど、、、。

 そう言えば、うちの事務所の相談者の話であるが、成人式に出席した時に中学時代の同級生がニコニコと近寄ってきて、良い話があるから是非聞いて貰いたいと言われて、ファミレスで落ち合ったところネットワークビジネスに言葉巧みに誘われて、気が付いたら30万円分の商品を購入させられてしまったと言う。
 
 荒れる「成人式」ばかりニュースになるが、その陰では「成人式」がネズミ講まがいのネットワークビジネス勧誘の草刈り場となっているのだろう。
 
 と言うことで、つらつら書くのがやっぱり気楽でイイようです。



1月20日:

・私のアルバイト歴 その5

 大学編 4回目
 
2:キャバレーのボーイ (胸躍るアヤシイ世界の巻)

 昭和46年夏、まだ19歳のボクは、我が身ひとつではるばる九州からやって来た姫路の地で、キャバレーのボーイをやることになった。
 
 自分の積極的な意志によってそうなったワケではなく、なにげないバイト探しの会話からコロコロ転がるようにして気が付いたらその日のうちに夜の世界に突入することになってしまったのだけど、まぁ、ボクらしいと言えばボクらしい展開ではある。
 
 ボクがボーイとして潜入することになったキャバレー「姫路会館」は姫路でも大きな店だった。中心部にはステージとダンスフロアがあり専属のバンドがいた。バンドと言っても小編成のエレキバンドではなくて、バンドマン10人以上の、ちゃんとホーンセクションの居るバンドだった。
 
 いわゆるホステスさんも総勢200人以上いた。フロアーを管理する黒いスーツのマネージャークラスの男性が約10人。専業のボーイは7,8人で、その他にパートタイムのボーイも10人ほどいた。
 あと厨房にも6,7人、それから店の出口近くには昔の映画館のチケット販売所のみたいな隔離されたボックスがあり、代金を受領する小窓を覗くと質素な身なりだけどお金の勘定だけはきちんと出来る風情の中年のおばさんが鎮座していたのだった。

 昭和46年当時はまだ高度成長時代の最中であり、世の中は景気が良くて、キャバレーは毎日盛況だった。

 ボクは蝶ネクタイに白い給仕服、シルバーと呼ばれる円形のお盆を小脇に抱え、手にはおしぼりを流用したダスターを持ち、フロアーを駆けめぐったのである。

 さてホステスさんたちであるが、年長の女性ばかりで、19歳のボクはまるで子供扱いだった。おおむね売れっ子のホステスは30代以上に見えた。なかにはボクのお袋よりも年上だと思われるようなオバはんもいた。
 少数だったが20歳前後の若いコもいて多少は胸のときめきを感じたが彼女たちにはボクらのことは全く眼中にはなかった。

 キャバレー内部は薄暗くて、ボックス席のテーブルには赤いランプが灯っていた。ほの赤く照らされるホステスさんの顔は不思議と皆、美人に見えるのだった。当時の化粧はかなりどぎついものだったけど、当時はそんなものだと思った。

 その後、仕事前の昼下がりなどに街をぶらついていると素面のホステスさんとすれ違うことが何度かあった。お店ではあんなにきれいに見えた彼女たちだったが、明るい場所では、肌はざらざらに荒れて白塗りの化粧が痛々しくてまるで別人のように見えたのだった。

 キャバレーでは毎日ショータイムが何回かあった。地方周りの売れない演歌歌手などが来たり、こぢんまりしたサーカスの曲芸などがあったのであるが、感激したのは、園まりがやって来たときだった。園まりと言うとボクにとっては大好きだった「シャボン玉ホリデー」では常連の「大スター」だった。
 
 それから、海老一染之助・染太郎も来た。テレビでしかみたことのない生身の芸能人を見ることが出来るのは単純ミーハー的に感動したであった。

 楽しくて刺激的なことばかり体験したのではない。キャバレーにうごめく同僚のボーイやマネージャーの面々は、それまでのボクの「人生体験」では決して遭遇したことのない、奇々怪々でオモろすぎるキャラクターのかたがたばかりだったのであった。
 
( この項、まだまだ続きます、、、、、。)



1月19日:

・私のアルバイト歴 その4

 大学編 3回目
 
2:キャバレーのボーイ (アヤシイ世界の入り口に到着の巻)

 さて、夏休みのバイトにキャバレーのボーイをやると言うウエジョーの突拍子もない「提案」であったが、ボクは「ホンマかいな」(んーっと、あの当時はまだ関西弁に毒されていなかったのであるからして、北九州弁でゆーところの「本気ねっちゃ!?」と表現すべきかな。)と思いつつ、「キャバレー」と言う「語感」に何故かワクワクしたもの感じて、同意したのである。キャバレーなんて現在「死滅」しつつあるようだが、昔は夜の娯楽の「王道」だったのである。
 
 善は急げとばかりに、高鳴る胸を押さえつつ、さっそくウエジョーの先導により姫路の夜の繁華街である魚町に向かった。

 「この辺やで、キャバレーとかようけあるんは、。」と、のどかな昼さがりの「夜の街」を徘徊しながら「お、ここがヒメカンか、ボーイさん募集の張り紙あるがな、行ってみよ。」と、例によってぐいぐい突き進むウエジョーに付き添ってその「姫路会館」と言うキャバレーの事務室に入っていった。
 
 なんか怖そうなヒトが待ちかまえているのではないかと少し不安だったが、きちっとした身なりの紳士的なひとが応対してくれた。来意を告げると即決で採用され、しかも今日から出てこいと言われたのである。
 
 あまりに簡単な展開に戸惑う間もなく、早速、従業員の控え室のようなところに案内され、使い古しの黒いズボンと白い給仕服、それに蝶ネクタイが支給されたのであった。
 
 勤務時間は午後4時から午前1時頃までだったと記憶している。ボクの下宿は姫路の中心部から北に離れた場所にあり、バスで行き来するのであるが、神姫バスの書写方面行きは午後9時40分が最終なのであるからして、ボーイの仕事が終わってからではもう下宿には戻れない。それでボーイ従業員用の「社員寮」に寝泊まりすることになってしまった。

 こうしてあれよあれよと言う具合にキャバレーのボーイとしてどっぷりと働くことになってしまったのである。
 
 ーーー 本日はこれまで。この続きは明日また ーーー


1月18日:

・私のアルバイト歴 その3

 大学編 2回目(昨日のつづき)
 
2:キャバレーのボーイ(イントロダクション)

 その後の我が人生を決定づけたアルバイトかもしれない。

 大学の夏休みは早い。7月にはもう夏休みに入っている。夏休みのアルバイトも5月の終わり頃からアタリを付けておかないと良いバイト先にありつけない。大学1年の夏、このことは念頭に無かった。
 
 「なぁカジワラぁ、夏休み一緒にバイトやらへんか。」と持ちかけてきたのは、加古川東高校出身で自宅通学のウエジョーだった。ボクとウエジョーは姫路工業大学産業機械科の同期であり映画研究会のメンバーでもあった。
 
 「うんイイよ、オレもバイトしたいと思っていたんだ。なにか良いバイト先、知ってるのか?」と、まだ「関西弁」に感化されていないボクは、北九州訛りを極力押し隠すかのごとく「標準語」で応えたのであった。
 
 しかし、ボクもウエジョーものんびりしていたものであるが、その会話は6月最終日のことであり、明日からはもう夏休みに入ろうかという頃だったのである。
 
 「学生課のアルバイト募集の掲示板はもうアカンなぁ、こうなったら街に出て、スーパーとかに飛び込みで当たってみいひんか?」とウエジョー。

 夏休みのアルバイトなどはそのうちなんとかなるだろうと、タカをくくって何もせずにいたボクは、遅きに失しつつあるのではという「予感」にいくぶん焦りながら、「そうだな、今から行ってみようか。」と早速、ウエジョーと姫路の街に出かけたのであった。
 
 いきなりスーパーの事務所に飛び込んでアルバイトの募集について訊ねると云うのは、ちょっとボクには気が引ける行動だったが、ウエジョーは物怖じせずにどんどん突き進んでいった。さすが「関西人」だなぁと思いながら、ボクはウエジョーの後を「金魚のフン」みたいにただ付いていくだけだった。

 ウエジョーはバスケット部にも所属しており身長180センチ以上のノッポであったが、相棒のボクは162センチのチビ。 そんなデコボココンビが炎天下の姫路の街をアルバイト先を求めて歩き回ったのであった。
 
 しかし、すでに時は遅し。どこもアルバイト募集は既に満杯であった。
 
 さすがのウエジョーも「さっぱりやな。もちょっとはよから動かなアカンかったなぁ。」と弱音を吐いた。
 
 まぁ一服でもと、道ばたでコーラを飲みつつ汗を拭きつつ、あれこれどないしょーかしゃーないなぁーとばかりに雑談していたとき、いきなりウエジョーが「そやキャバレーや! キャバレーのボーイゆう手があるやんか。キャバレー行こキャバレー!」と言い出したのである。

  ーーーー つづく ーーーー

(うーん、なんか小出しにしながら延々と続きそうな予感。では、また。)


1月17日:

・私のアルバイト歴 その2

 さて、私の大学生活は昭和46年4月、兵庫県姫路市の北にある書写山の麓あたりで始まったのである。私の下宿屋のすぐ隣は、高校野球では実力校の東洋大付属姫路高校だった。

 最初の頃、親からの仕送りは月額1万5千円だった。4千円の下宿代を払った残りで、学生食堂で30円の朝定食を食べ、昼は60円のカレー、夜は150円くらいの定食を食べると、あとはもういくらも残らなかった。(オイルショックの前だったから、学食のメシ代は安かった。)

 必然的にアルバイトをしなければならない経済状況であったので、それなりに多数のアルバイトを経験したのであるが、何故か家庭教師だけは絶対にしなかった。
 こんなオレみたいな半端モンが他人にベンキョーを教えるなんて大それたコトが出来るワケが無いとゆー「謙虚」な自覚だけは所持していたのである。
 
 そんな大学時代に経験したアルバイトの中で、記憶に残ったものを列記してみよう。
 

1:紡績工場の清掃

 姫路の近くの兵庫県高砂市に所在の紡績工場内部の清掃。昭和46年5月頃で日当が1800円だったような記憶。紡績機械や床に堆積した多量の綿クズをかき集める作業だった。

 作業中の綿ボコリが多くて支給されたマスクの呼気部分をたちまちふさぎ、目の周辺や耳のあたりにも付着して気持ち悪かった。

 清掃を請け負う個人業者がアルバイト学生を動員して工場の稼働が止まる日曜日に一気呵成に工場内を掃除するのだが、その個人業者のオヤジがとても人使いが荒くてアルバイトに対しては常に「オイコラ」呼ばわり状態、オレたちバイトは作業しながら文句タラタラだったのだが、中には頭に来たのか紡績機械に装填された帯状の綿をブツンと切断してしまう悪いやつがいたりなんかしても誰もとがめず、オレもヘラヘラ笑いながら見てるだけだった、、。 

 工場には社員寮が隣接されていて、昼食は食券が支給されてそこの社員食堂で食べたのだが、社員寮の廊下を通るときに、社員寮で暮らす工場労働者とすれ違ったのであるが、男性社員は皆一様に短髪でかつ集団で行動しており、ボクたち学生とすれ違う際には大声で一斉に軍隊式の挨拶をするのだった。
 
 食事の際も、異様な大声で「いただきまぁーーすっ!!!!!!!」と書くとちょっと間延びしたカンジだけどそうではなくて、まるで空手なんかで気合い入れるみたいに「ウォッス!!!」と短く威圧的に聞こえるように発してからバシッと箸を取り、それからおもむろにご飯を食べていた。
 
 そこには女子従業員もたくさんいて、みんな「ほっぺたの赤い」ような素朴な顔立ちの若いコばかりであり(うーん、こんな言い方は「差別的」「侮蔑的」表現なんだろうか、、、)僕たち学生を物珍しそうにジロジロ見ていたなぁ。


 と言うところで、「アルバイト体験記・大学編」は、1回ではとても終わらないです。この続きは次回にて。
 

1月16日:

・私のアルバイト歴 その1

 先日、大学時代のアルバイト(神戸新聞社の選挙世論調査)のことにちょっと触れたので、自分が経験したアルバイトのことなど書いてみよう。


1:新聞配達
 中学1年の1学期に始めた。それも夕刊だけの配達。でも1週間で止めてしまった。配達先に犬が居る家が数軒あってコレがよく吠えるんだな。怖くてたまらなかった。
 それから、配達途中で便意を催し、こらえきれずに人気の無い道ばたにしゃがみ込んで「野糞」をしてしまったことがあった、、、、。その時、ケツを拭くのに、商品たる新聞紙を借用したかどうかは記憶には無い。しかし、39年前のあの頃には現在のボケットティッシュなんて便利なものは存在しなかったのであるからして、一体どう「処理」したんでしょうねぇ。
 あと、配達が終わっても手元に未配達の夕刊が数部残ったことがあり、どうしようもなくて帰る途中、墓場の一角に捨て置いた記憶がある。なんて意気地無しで性根の悪いガキだったんだろう。


2:年賀電報の配達
 中学3年生の正月、学校からの指名でやらされた。前日の大晦日に電報局に集まって予行演習をしたのだが、若松の6つの中学校から自分と同じような男子生徒が集まって来ていた。
 配達しながら正月に働くことの清々しさのようなものを感じた。配達を終えて電報局に戻るとテレビで「キングコング」をやっていた光景を今でもくっきり鮮明に思い出す。
 
 
 高校時代、予備校生時代にアルバイトをした記憶は無いなぁ。
 
 高校生の時、友人が正月の餅作りのアルバイトを餅屋でやっていたのを聞いたことを思い出した。彼は稼いだ金でエレキギターを買った。
 
 予備校は九州英数学館の寮に入っていたのだが、寮生の中には、日曜日の早朝に沖仲士のアルバイトをする屈強の者が居た。そいつはアルバイトで得たお金で、当時珍しかったラジオカセットを買ったのだった。

 さて、怒濤の大学時代であるが、次回と云うことで、また。


1月15日:

・暗いニュース

 私の生まれ故郷、北九州・若松にて「母親の子殺し」事件のニュース。
 
 無理心中しようとしたのか、母親が小学校6年生の男児を刺殺して、自分は生き残った。
 
 世を儚んでのことか、それとも「借金苦」か。
 
 たかが借金のことで自殺したり心中することほど割に合わぬことは無い。
 
 借金ごときで死にたくなるのなら、その前に、国民の税金をつぎ込まれながらも融資先の破綻企業の借金を棒引きにして責任を取らない大銀行の奴らを道連れにするべきである。その破綻企業の棒引きしてやった債務ってのはつまるところ我々国民のなけなしの預金じゃないのか!

 大銀行の経営者はのうのうと生き残り、大銀行が金主のサラ金から生き血を吸われた庶民は、絶望の淵で死を選ぶのである。

 企業家も政治家も上に行けば行くほど、チャランポランな無責任体質なのであるからして、末端のわれわれ庶民は、もっとしたたかに生きるべきであろう。
 
 たかが借金ぐらい発想を転換して開き直ってしまえばなんのことはない。
 
 自己破産、調停などの「法的解決」も弁護士に依頼するお金が無ければ、自分でやればいい。裁判所への「本人申立」は国民の権利なのである。
 
 裁判所だからと云って怖じ気づくことは無いのだから、堂々と出入りすべきである。
 
 「今年も肩で風を切りながら進んで行きましょう。」
 
 今年、同業者のかたから頂いた年賀状の中で私が一番気に入った文言の引用である。


1月14日:

・本日の更新

 我がホームページのi-mode対応ページの手直しをしました。
(業務用限定:表紙ページの「わたしのお仕事」からリンク有り)
 
 Adobe GoLive 6.0 を使って i-mode 用の「絵文字」をいろいろ入れてみました。現在主流のカラー液晶の携帯電話だと色つきになる。多少メリハリが付いたかな。

 しかし、パソコンからでは絵文字の部分が文字化けしますのであしからず。


・MacOSX続報

 おおっ!OSX 10.2 では、プリンタ出力のメニューからPDFファイルに保存出来るんだなぁ。
 
 しかし、Adobe Acrobat (Reader ではなくてPDF作成ソフト)をインストールもしていないのに、いろんな「文書」(ウェブ・ブラウザの画面も含む)を非常に簡単にPDF出力出来るなんですごい!(はぁ? オレだけか、知らんかったんは?)
 
 あと、Windows とのネットワークもより簡単になり、同一LAN上に繋がっている Windows PC の共有ボリュームをMacのデスクトップにマウント出来るので、MacからWinのハードディスクにPDFファイルを出力することも可能である。(実証済み)

 こうなると Windows と Mac の垣根は無くなるワケで、本当に24時間Mac漬けの毎日になってしまいそうである。(別にカルト的妄執では無いです、、。)


1月13日:

・MacOSX近況

 昨日のメルマガ配信とホームページ更新の作業はすべて MacOSX でやりました。使用ハードは iBook 700Mhz、搭載メモリは合計 640M です。

 「コンピュータ、ソフト無ければただの箱」と言うことで、せっかくの「モダンOS」もしばらくは持て余し気味であったが、最近はOSXネイティブなソフトウェアも増えてきた。

 当方の iBook にもメジャー系の表計算ソフト&オフィースパッケージに加えてフォトショップ、イラストレータなどを導入。日本語入力もATOK15をインストールして、ほぼ業務用のWindows系PCと遜色ない環境になった。
 
 また、Virtual PC も導入して Mac のデスクトップで Windows XP Pro も稼働出来るようにした。
 
 懸念していたプリンタ出力も事務所のインクジェットプリンタがUSB接続で問題なく使えるし、Air"H もOSXのほうが使い勝手が良い。
 
 で、昨日は、まずエディタの Jedit4 で文章を書き、つい最近アップルが出したばかりの新ブラウザ Safari で「まぐまぐ」の発行手続き。インターネットへは Air"H で接続。

 ホームページは Adobe GoLive 6 で更新作業をして、FTP転送も GoLive でやりました。1995年にホームページを立ち上げて以来、FTP転送は定番の Fecth を愛用していたが OSX 版の Fecth がちょっと使いづらかったので、。(英語版なので私の英語読解能力が無かっただけです、、、。)

 一連の作業をしていて感じるのは、「堅牢なOS」への安心感。ソフトをいっぱい立ち上げていても大丈夫。まずクラッシュしないのである。
 
 あと、デジタルビデオなら iMovie 、iPod は iTunes 、デジタルカメラも iPhoto が使えるし、いわゆる「デジタルハブ」としての完成度の高さも考えると、仕事にも遊びにも趣味にも毎日24時間使って楽しいMac&OSXなのであることを実感している。(ん?コレって「カルト宗教」の一種?)
 
 しかし、メールソフトはマイクロソフトのオフィースパッケージに付属の「アントラージュ」を使っております。メールソフトだけはMS製を使うことを拒絶していた私であるが、ついにMSの軍門に下った次第、、、。
 
 一応、今、ヤフーオークションで OSX 用の Eudra を入札しています、、。



1月12日:

・訃報

 深作欣二氏が亡くなった。 本日、寝起きのテレビニュース、第一報。

 深作監督の「仁義なき戦い・広島死闘編」は、我がフェバリアット・ムービーの筆頭である。 私のホームページの「思い出し映画ノート」にこの映画に対する哀惜の情念を綴っているので読んでいただけたらと思う。
 
 深作監督の映画を最初に観たのは、昭和46年、大学1年生の初夏だった。
 
 神戸新聞社のアルバイトで参議院選挙兵庫地方区の投票行動調査を兵庫県龍野市でやった時に、時間つぶしと云うかサボったと云うか、龍野市の映画館で「博徒外人部隊」を観たのだった。

 鶴田浩二が主演のその映画は、乾いた不思議な倦怠感に支配されていて、当時主流の東映ヤクザ映画の湿っぽさとは一線を画しており、ボクは妙に惹きつけられたのだった。
 
 その後、「仁義なき戦い・広島死闘編」で衝撃を受けることになるが、深作監督のその他の作品では、「仁義の墓場」「資金源強奪」「人斬り与太 狂犬三兄弟」が心に残る。
 
 深作監督作品だからと言ってすべてが良いわけではなく「宇宙からのメッセージ」は失笑の連続でしたが、、、、。
 
 「仁義なき戦い」の脚本家である笠原和夫も、東映映画の名脇役・室田日出男も昨年亡くなってしまった。

 日本映画からアナーキーな感性がまたひとつ失われていく。 合掌。 



1月11日:

・みんな月でした、、、、、。

 本日の北九州市は午前中は雨。 昨日はロドスタがあまりにも汚れていたので洗車しようと思っていたが、しなくて良かった。

 昨日の深夜、テレビで「皆月」と言う映画をやっていたので結局最後まで観てしまった。

 花村萬月原作の数年前の日活作品。主演は奥田瑛二と吉本多香美。

 「みんな月でした。がまんの限界です…」と書き置いて若い男と駆け落ちした妻(荻野目慶子)のことが忘れられないしがない中年男(奥田瑛二)が、何故か若い風俗嬢(吉本多香美)に惚れられてなんとなく同棲をし、そして、「決着」をつける為の旅に出ると言うシチュエーション。

 吉本多香美は以前、我が日本行政書士会連合会のポスターに起用されていて、また、初代ウルトラマン役の俳優黒部進の娘だと言うことで良く知っているのであるが、私にとっては「清純派」のイメージであった。

 しかし、この映画はR15指定とゆーことなのであるからして、オジさん的にゆーと「おおおっ!!!!」とゆー役柄&文字どおり「体を張った」演技なのでありました、、、、。

 映画の終局の舞台は石川県皆月湾の荒涼たる海岸線であるが、こういう情景の場所が日本にあったのだなぁ。まるっきり「つげ義春」的な場所である。行ってみたいなぁ。

 そう言えばこの映画の奥田瑛二は、つげ義春の「無能の人」の主人公に通じるようなところがあると思った。

 久しぶりに「余韻」が残る映画を観たのであったが、また夜更かしをしてしまって寝入ったのが明け方近くになってしまいました、、、、。


1月10日:

・本日の血圧測定結果

 今日は3週間ぶりの血圧の定期検診。上が124、下が82、パルス68でした。一応、平常値です。

 このところ断酒日も全然無いし、夜更かし続きの不健康な毎日、おまけに正月休みで体重もリバウンド状態だったので、今日の血圧は高めだろうなあと覚悟していたけど予想外に安定していた。

 で、薬がひとつ減って2種類になりました。調剤薬局で薬と一緒に貰った紙を見ると「アダラートL錠20mg」と「プロブレス 4mg」とある。どちらも降圧剤です。血圧が安定しているのは薬のおかげなんだろうな。薬が飲めなくなるとどうなるのだろうか、一抹の不安を感じる。

 血圧の負担要因は「塩分」と「体重増加」だそうで、「塩分」の取りすぎには注意をしているつもりですが、体重を減らすのは本当に難しいです。

 それから今日は、心電図を測定して、更には肺のレントゲンを撮りました。どちらも異常無し。

 レントゲンを撮る時に、重たい鉛が入ったようなどっしりした「腰巻き」を下半身に装着されたのであるが、こういうのは初めての経験であった。

 病院から帰って補助者に話すと、女性の場合で妊娠してる時とかにそのような「腰巻き」を装着してレントゲンを撮るそうである。

 オレって別に妊娠して無いし(お腹は出てますが、、、)、それとも放射線に弱いと言われる「睾丸」あたりをガードしてくれたのだろうか。うーん、今更、種を付けようかとゆー元気もないしなぁ。

 と言うところで正月明けの今週もなんとか無事にやり過ごすことが出来そうです。



1月 9日:

・ホント、誤字脱字が多くてすみません。

 「れのん亭日乗」のメルマガ配信は誤字脱字が多いです、申し訳ない。

 ホームページ版では気がついたら訂正するようにしていますが、放置状態のものも多いです。(オレの性格の一端が良く判る、、、。)

 自分はなんでも後先考えずに思いついたらパッとやってしまうタチなので、それで何度も恥ずかしい思いをしているのだが、それでも直らない。

 メルマガ配信の準備とホームページ更新は毎日30分以内でやることにしているので、たいてい思いついたことをさっと書いてしまうのだが、一度書いてしまったものはちゃんとチェックしないことが多い。

 ワープロは便利だけど「誤変換」を見逃すことが多い。或いは、よく解ってもないのにワケ知りふうに難しいそーな「言葉」を使ってしまったりとかした場合など、後で読み直しても「誤変換」であることが見逃してしまうのだろう。

 それから、うちの補助者に指摘されたのであるが「ずつ」と「づつ」の使い分けが私の場合、デタラメだったりするのである。

 メルマガは一度配信してしまったらもう手遅れなので、配信済みのバックナンバーを読み返すのは冷や汗もんである。

 さて話は全然ちがうけど、現在開催中のマックワールド・サンフランシスコでノート型マックの新型が出た、、、、。ショック、、、、。

 iBook を購入して1ヶ月も経っていないのに、今度の小型版のPowerBook G4 は良い出来で激しく物欲をそそられている。悔しい、、、、、。

 しかし、思えば18年前に初めてパソコンを買って以来このかた、いつも購入数ヶ月後には値段も安くて高性能な新製品の出現にガツンと打ちのめされることの連続ではあります。

 ところで今年からマックワールド東京は開催されないらしい、、、、。もしも本当だったら呆然自失ではあるが、そうなりゃ、1年後のマックワールド・サンフランシスコ目指して頑張るしかないなぁ。

 Mac殉教者として、年に1度の「巡礼の旅」を終わらせるワケにはいけないのである。(結構、本気です。)


1月 8日:

・夜更かし癖が直らない

 どうも正月休暇で生来の宵っ張りな自分が甦ったようで、昨夜も午前3時過ぎまで寝付けなかった。
 テレビを観ながらインターネットをして本を読むだけなのだが、ある面、自分ひとりで集中出来るので、情報や「知識」の集積度はかなり高いと思う。まぁ、私の雑学的知識のほとんどは深夜において獲得したものばかりだなぁ。

 ちゃんと7時に起床するのだけど、その分睡眠不足で今日も日中はキツかったです。夕方、ついうたた寝してしまいました。

 ただ今、午後9時ですが、まだ事務所に居ます。明日の段取りがようやく終わったばかりです。

 「本人申立」に添付する行政書士法第一条に適法なる「疎明書類」を仕上げました。分をわきまえた、やり甲斐のある仕事です。

 年が明けたばかりだと言うのに、我が事務所には相談電話や相談者訪問の切れる間がありません。なんとか今年も忙しそうな「予感」。

 でもこうゆー時に限って奈落の底に突き落とされるような事態がやってくるんだな。

 「好事魔多し」と言う。常に自戒して謙虚さを忘れないようにしなければ。

 と言うコトで、なんか最近「教訓ネタ」が多くなってきたなぁ。

 オレはオレらしくもっと「破廉恥」に行かなければ、、、、、。

 では、また。



1月 7日:

・肩こり

 自分は20年前にタバコを止めた。

 タバコを吸っていた頃は、胃が荒れて、肩がよく凝り、それに加えて口臭がキツかったのであった。

 タバコを吸わなくなって当初の10年間ぐらいは、本当に肩こりとは無縁であった。あの頃は、肩凝りは血の巡りが悪くなって起こるのでタバコを止めると血の巡りが良好になって肩凝り解消になったのだと実感していた。

 しかし、デスクワーク中心の仕事になってから再び少しずつ肩が凝るようになった。

 肥満の進行と運動不足が肩凝りの原因なのは明らかである。

 肩が凝ったら優しく揉んで貰ったら良いのだけど、そうそう簡単にワタシの肩を揉んでくれるヒトがいるワケではないし、有料マッサージってのも敷居が高いのである。それに揉んでもらって気持ちイイのは一時的だし、なんとかならないかと考えたのだけど、要するに運動したら良いのであることに気がついた。

 それで、街の100円ショップで売っている1Kgの鉄製のダンベルを買ってきて、気が向いたらそのダンベルを手に取ったままで腕を動かすようにしたのであった。

 机に座ってパソコンに向かいながら空いた手にダンベルを持って腕を真っ直ぐに伸ばたまま、ゆっくりと上下に20回ほど動かすと、腕の付け根と肩の筋肉を使うのを実感することが出来る。

 それを左右の腕で交互にやったり、時には立ってぐるりと腕を回したりするのである。あくまでも気楽にやることがポイントである。

 そうすると不思議と肩凝りが解消するのである。

 ま、そうやって肩まわりの運動をしたところで、お腹の出っ張りはちっともひっこまないのであるが、、、、。


1月 6日:

・仕事始め

 昨夜は深夜から暴走族がバリバリと走り回って騒々しくて何度も目覚めてしまった。

 それが原因と言うか単なる正月休みボケかそれとも夜更かし癖が再来したせいかわからないが、今朝は7時に起きるのがキツかったです。

 本日の午前中は、年賀状の整理をした。こちらからは400枚出したが殆どが顧客向けに出したので、多くの同業者の皆様に対して「不義理」をしてしまったようで、あるいは、名刺交換をして頂いたかたから丁寧な賀状を頂戴して恐縮することしきり、ようやく本日になってご返事差し上げた次第である。約60枚。

 午前中からも相談などの電話が多く掛かってきました。同業者からの長電話もあったなぁ、、、。

 午後からは新年第一号の相談者が来訪。あんまりお役に立てなかった模様。と言うか、相談者の「ふところ具合」が「弁護士モード」だったし、その上、あれこれ都合の良いことを言うので、弁護士事務所を紹介してあげました。

 やっぱりうちの事務所は「弁護士」に頼ることの出来ない「生活困窮者」のかたがたをまず支援したいし、あんまし「素直」ではない人、「魂胆」の在る人も敬遠してしまう、、つまり、まだ私は「人間」が出来ていないのである。

 朝一番は、補助者と事務所運営の年間計画について打ち合わせ。今までも毎朝30分、コーヒーを飲みながらスケジュール確認と「工程管理」をするが、コレって本当に大事なことです。

 とゆーコトで、いよいよ今年も出発進行である。


1月 5日:

・さて、そろそろスイッチオン

 今朝の北九州は「予報」どおり雪模様であった。しかし積雪と言ってもすぐに溶けて無くなりそうな頃合いである。

 さて、明日から業務再開。いよいよ本年もスタートである。

 本年も昨年同様、いやそれ以上に困難な局面が予想されるのであるが、これまでも「陽転思考」によっていかにマイナスの状況であろうと「プラス」に解釈して行動し難局を切り抜け、結果的には「前進」を克ち取ってきた。(その分、だんだん人相が悪くなってくるのであるが、、、。)
 
 多重債務問題解決業務についても、「本人申立」支援業務だけではなくて、多重債務予備軍に対する事前の対策指導あるいは「予防措置」業務、また「法的解決後」の「無産者」に対する総合的なアフターケア、たとえば就業支援などにも取り組んでいきたい。そのためには「組織」化も念頭に置かなければならないだろう。

 やるべきことは山のようにあるが、生来の怠けモノなので、昨年同様に、我が事務所の「広告」を「掲載不能」にしようとする他士業者からの「妨害行為」などが無ければ、なかなかヤル気が起こらないタチなので、去年以上の妨害・嫌がらせ・圧力などは望むところである。

 とゆーことで、「明日はどっちだ!」


1月 4日:

・天気予報、当たるかな?

 ただ今、北九州は午後3時頃。 昨日より寒風吹きすさび、今朝からは小雪がちらつく空模様。この冬一番の寒波到来である。

 天気予報ではしきりに、本日深夜より北九州でも大雪が降るとのこと。山間部で20センチ、平野部でも10センチの積雪だそうな。

 天気予報も昔と違って、気象衛星からのリアルタイム情報とスーパーコンピュータによる解析で予報精度が上がったそうだが、やっぱりよくハズれるのは、ま、「予報」故しかたがないのだろう。

 別に情報料無料(よーするにタダ)なので文句を言える筋合いでもないか。

 いやいや、気象庁の人件費も気象衛星「ひまわり」の打ち上げ費用&維持管理費も我ら庶民の「血の一滴」たる「税金」から供出されているのであって、納税者としては少しは「天気予報」のハズレ具合についてケチを付けてもよいのでは無いかと思うが、、、、、ま、正月だから、いいか。

 でも、明日目覚めたら、窓の外はあたり一面の雪景色だったらイイな。

 天気予報よ! 今夜と明日は絶対に当たってね!


1月 3日:

・じとじと雨のお正月

 北九州市の正月3日目は雨模様。それで昼間からテレビを見ております。

 TBS系列のRKB毎日放送で今やっている「超豪華!あの人は今!新春紅白!夢の歌合戦」とやらを観ていてぶっ飛ぶ。

 何故ならアノ克美茂が出てきて「エイトマン」を歌ったからである。

 まだ生きていたんだなぁこの人、歌うときに流れる紹介のテロップには「情痴殺人」とか「覚醒剤」とかの犯罪歴は出てこなかったなぁ。なんか精彩がなくて痛々しい。しかし私自身、「エイトマン」のテーマは今でも歌詞カード無しでも歌えることを確認しました。

 あと「京都の恋」を歌う渚ゆう子が出てきたが、なんかデブデブでパンパンに膨れ上がった顔つきがこれまた痛々しいのであった。30年前の現役当時の画像も出てきたが、私の印象では当時も相当にオバサンっぽいネェちゃんだと思ったが今見ると結構それなりに若かったんだなぁと、、、。(オレが歳とっただけか、、。)

 さて、昼間からたらたらテレビばかり観てると「脳軟化症」になりそーな気がしてきたので、雨の中、ぼちぼち出かけようかな。


1月 2日:

・人の行く裏に道あり花の山

 新春早々の書き込みもまた井原西鶴である。

 西鶴の言う「人の行く裏に道あり花の山」とは「株の相場」では有名な「格言」らしいが、我々の業務に於いてもまた重要なヒントであろう。

 要するに大勢の人間が既にやっていることと同じことをしても駄目、ちょっと視点を変えた独自の道を歩めば以外とそこにはきれいな花が咲いているのに出会うと言うことであろうか。

 私自身、本年もまた「常識はずれ」な「隙間」を見つけて、密かに歩を進めたいと考えるものである。


 さて、正月1日目は、家の中に引きこもって昼間から酒を喰らったのであるが、テレビも沢山見てしまった。

 相変わらずの煩いお笑い系のバラエティ番組が多い中で、以外とNHKの番組に拾い物があった。

 午後9時から12時過ぎまで「日本再生への道を語ろう・奥田碩と安藤忠雄の視点」、「遙かなるリビア」、「未踏の『知』をめざせ・ノーベル賞受賞者が語る独創性」とずっとNHKばかり観てしまったが、非常に示唆に富む内容で沢山のインスピレーションを感受することが出来た。

 夜中の1時すぎからはスパイク・リーの「マルコムX」が字幕&ノーカットでやっていたので午前5時近くまで観てしまった。ちょうど裏番組では「オースティン・パワーズ・デラックス」をやっていたので最初のほうだけ観たけど、あの手の「シモネタ話」のオンパレードには今はちょっと食傷気味なので敬遠。

 映画「マルコムX」は、アレックス・ヘイリー(「ルーツ」の作者)の「マルコムX自伝」にほぼ忠実な内容である。
 若い頃のマルコムXが髪の毛をコンク(黒人特有の縮れ毛を白人みたいに真っ直ぐに伸ばすこと)する様子とか、ズート・スーツの着こなしとか、ナンバー賭博のこと等々が原作どおりに再現されるのである。

 感動的なのは、マルコムXが暗殺されることになる講演会場に向かうシーンで、サム・クックの「チェンジ・イズ・ゴナ・カム」が流れるシーンである。このシーンではいつも涙ぐんでしまう。

 結局、寝入ったのは明け方の6時前。

 お昼ごろに起きて、正月2日目もまた淡々と過ごしております。



1月 1日:



 新年の佳き日和をお慶び申し上げます。

 皆様におかれましては、誤字脱字思い込み勘違い文脈不明の限りを尽くす「れのん亭日乗」を毎度お読みいただきありがとうございます。

 本年2003年も相変わらずのマイペースで書き込む所存であります。

 今年もお互いに健康かつ元気で生き抜きましょう!

 平成15年 元旦



2002年12月31日:

・世間胸算用

 さて、大晦日の本日、いかがお過ごしでしょうか。

 「元日より胸算用油断なく、一日千金の大晦日をしるべし」とは、井原西鶴の「世間胸算用」の序文ではある。

 元禄時代、浪速の大晦日は銭勘定の「始末」に皆が駆けずり回る総決算の1日だったようである。

 角川文庫版の「世間胸算用」に活写される町人たちの「銭」にまつわる立ち居振る舞いはなんでこんなに面白いのだろう。

 「世間胸算用」の中に、借金取りが来ても返すあてが無いので、頭がイカれたフリをして借金取りの目の前で、飼っているニワトリを包丁で斬り殺すパフォーマンスをする男のエピソードが出てくるが、昔も今も「銭」の貸し借りをめぐる攻防は虚実入り交じり、赤裸々な人間模様が浮かびあがってくるのである。

 本日は銀行が休みだけど昔と違って正月でもATMで現金を引き出せる便利な世の中である。だからと云ってサラ金の取り立てが大晦日の夜まではやって来ないだろうけど、いわゆる「闇金」とか「090金融」などアウトローな面々はやはり大晦日であっても債務者の家に取り立てにやってくるのだろうか。

 「世間胸算用」の情景はどこかユーモラスであるが、現在の一般庶民の「銭の始末」は暗い気分が蔓延しつつあることは確かである。

 来年もまた我が事務所の主要業務は、多重債務で苦しむかたがたの問題解決へ向けての支援業務である。

 「本人申立」は単なる「過程」のひとつであり、その前後にはもっと重要な「仕事」と「仕事の種」が山のように存在する。それらを掘り起こして「業務」として確立することが来年の課題でもある。

 その意味で「行政書士」と云う「仕事」の可能性は「無限」である。そのためには「知恵」を絞らなければならないが、「世間胸算用」にはそんなヒントが沢山詰まっていのだ。

 さて、今年の3月にこの「れのん亭日乗」を「毎日更新」しようと突然決意したのであるが、どうにか毎日更新を継続することが出来た。あと2ヶ月とちょっとで丸一年なので、それまではなんとか1年間毎日更新を貫徹したい。

 それでは皆さん、良いお年を。


・「れのん亭日乗」2002年12月

・「れのん亭日乗」2002年11月

・「れのん亭日乗」2002年10月

・「れのん亭日乗」2002年9月

・「れのん亭日乗」2002年8月

「れのん亭日乗」2002年7月

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「れのん亭日乗」2002年3月

一番ふるい「れのん亭日乗」