2002年 8月〜
8月 31日:
・MTVで、、、。
今朝の午前9時頃、枕元に置いていた携帯電話に事務所からの転送電話が着信してたたき起こされました。
寝ぼけ状態で受け答えをして後、起きあがってたらたらパソコンをいじりながら、テレビを見ていたら、ケーブルテレビのMTVで、クィーンの「Radio GA GA」のビデオクリップが流れてきた。
うーんフレディ・マーキュリーってやっぱりホモな雰囲気だなぁと思ったのはともかくとして、このクリップにはフリッツ・ラング監督の「メトロボリス」の情景がいくつか使われいて、なかなか上出来の仕上がりになっていました。
「メトロポリス」は、26年くらい前だろうか、京都大学の西部講堂で上映会があった時に観た。「ノスフェラテュ」と「ゴーレム」だったか、いわゆるドイツ表現主義映画との併映だった。
1920年代の映画であるとは信じられないような凄い映画だったけど、その無声映画の字幕がドイツ語だったので、それをドイツ人の留学生が英語に翻訳したのを更に学生が通訳したのだが、それが画面に拮抗するかのようなシュールな語感であったのを思い出すのであった。
あの時、西部講堂の屋根には大きくペイントされた「オリオンの三つ星」が色褪せていたけれど残っていた。それは遙か「テルアビブ」に通底する意味合いを強く提示するものであった。
「メトロポリス」、「西部講堂」、「オリオンの三つ星」、、傑作映画を観るに相応しい「時」と「場所」ではあった。
8月 30日:
・台風15号接近中に思うこと
台風が我が九州の西側に沿って北上している。現在、長崎県西方の沖あいにいる模様。
北九州では本日、朝方は晴れて蒸し暑い天候であったが、午後になって曇り空になり、午後4時ごろだろうかものすごいどしゃ降りになりました。
夜になって雨は幾分収まったけど、時折、強烈な風が吹き抜けております。
台風15号は、朝鮮半島と九州の間を北上しながら日本海に抜けるようだが、速度がなんか遅いようで、明日は一日中、台風の影響をモロに受けそうです。
結局、今年は一度しかプールに行けなかったなぁ。昨年は一度もプールに行かなかったのだが、そのせいか、秋口から春先にかけて何度も風邪を引いてしまった。今年はどうだろうか。
ま、とにもかくにも、明日で8月が終わってしまいます。
で、なんの脈絡も無く映画ネタに移行するのですが、ボクが映画「八月の濡れた砂」を初めて観たのが、封切りから1年後の昭和47年9月初め頃、東京銀座の並木座と言う名画座でした。
真夏の1ヶ月間、土方仕事のアルバイトで得た4万円を握りしめて、東京高田馬場の友人の下宿に1週間ほど転がり込んで映画を観まくっていたのだった。
その時、なんと鈴木清順の「けんかえれじい」との2本立て上映であり、超満員の館内は異常な熱気で盛り上がり、そうか映画ってこんな風に観るんだなぁと強烈な「カルチャーショック」を受けたのであった。
ほんのちょっぴり、「熱い時代」の「残り香」がまだそこにはあったのかもしれません。
8月 29日:
・パソコン関連話あれこれ
1:ノートPCにメモリー増設
Let's Note Lite PRO にサードバーティ製メモリー128Mを増設して、合計256Mになりました。(これがこのノートPCの上限らしいです。)
OSがWindowsXP Proなのですが、メモリー増設後は、起動時のスワップファイル等のハードディスクアクセスがほとんどなくなりました。つまり起動後はすぐにマシンが安定に稼働するようになりました。
あと、全体的に高速になったような、、、、、気がする、、、、だけかも。
2:Mac OS X
デジタルビデオの編集が簡単なiMovieですが、Mac OS 9.2でのiMovie1だと動作に不安定なところがあるが、しかし、Mac
OS X にタダで付いているiMovie2は、処理が高速なうえにOSもソフトも安定しています。
やっぱりこれからは、OSXの時代なんだと実感。
デジタルビデオ編集ですが、いやほんと面白いです。なんかこう、病み付きになってどんどん投資してしまうような予感が、、、、。
3:100BASE-T 導入
事務所のLANを、一部ですがが、10BASE-Tから100BASE-Tにリプレースしました。と言ってもハブを買い換えただけのハナシですが。
最近よくよく考えてみると、愛用ノートPCと春先に自作したアスロン1800+マシンの両方ともが内蔵のLAN端子は100BASE規格であることに気づいたので、事務所内LAN上のハブポートを10/100BASE自動切り替えのものに変更してみました。その他のPC/AT互換機3台とMac2台については変更せずに現状の10BESEのままでハブに接続。
結果、ノートPCとアスロン自作マシン間のファイル転送は、非常に高速になって大満足。
その他のネットワークについては、プリントサーバも含めて別段異常無しで、一応、10BASEと100BASEが混在しても大丈夫でした。はは、これって当然のことかな。
でも、「初心者」の「素朴な疑問」への「回答」になったかも、、、、。
以上、パソコン三題噺でした。
8月 28日:
・マブチモーター、、、、、。
悲しい話題でワイドショーネタにもなった「マブチモーター」、、、、いまさらナンですが、ちょっと書いてみます。
「マブチモーター」って言うとわれわれオジさんには、本当に懐かしいと言うか、「思い出」がいっぱい詰まっています。
プラモデルとか電動工作で使うモーターは、決まってあの小さな円筒形で青い色のマブチモーターでした。磁石の部分が両横から四角に突き出た無地銀色のモーターもあったけど、あれも「マブチ」だったのかなぁ。
ヒコーキプラモのプロペラを回したりとかはボクはあんましやらなかったけど、船のプラモとか昔のはディスプレィモデルと言うよりも実際に水に浮かべて走行させるのばかりだったから、「ニチモ」の戦艦大和とかアメリカの航空母艦フォレスタルとか、それからマルサンの「宗谷丸」(全部オレンジ色のモールドだった!)なんかを作った時なんか、ちゃんとスクリューが2連式になっていて幼心に感激したりしたのであった。
でも、出来上がっていざ進水式と言う段になってまずは自宅の風呂に浮かべてみると左右のバランスが取れずに傾いたりして、そのうち浸水して沈没しかかったりするワケで、ホント大変とゆーか楽しかったんだなぁ。
あと「田宮」の戦車プラモなんかはリモコン全盛時代で、動力用の2個のマブチモーターをコントロールして右折したり旋回したりするんだけど、新しいモーターを2個同時に購入せずに古いのを流用したりなんかすると、左右のモーターの回転数が合わずにまっすくに前進出来なかったりした。
初期のマブチモーターは電線が直付けで、よくポロリと付け根から千切れたりして、それを接続し直すのが大変だった。借りてきたハンダゴテがうまく使えず四苦八苦しながらやったけどダメだったなぁ。その後、電線が取れにくいような仕組みになったけど。
そんなこんなで、なんで今頃「マブチモーター」なんだ?!と驚くのであるが、伝え聞くニュースはあまり心地よいものではないです。
なんかこう、大事な思い出を踏みつけにされているみたいだなぁ。
8月 27日:
・本日の朝日新聞朝刊より
「地産が更正法申請」
「地産」って要するに不動産屋の元締めと云うか、北九州じゃあんまり馴染みがなかったけど、昔、26年前くらいだろうか、まだ新大阪駅周辺にいたるところ野っ原があったころのハナシだけれども、新大阪駅の近くで望見した、茶系のマンション風の建物のてっぺんに赤い大きなひらがなの「ち」の一文字が異様に目立った光景を、今でもありありと思い出すのである。
あのころはまだ「痔」が悪かったワケではないけれど「ヒサヤ大黒堂」の新聞広告は何故かよく知っていたボクは、そのマンションのてっぺんの「ち」ってゆー赤い大文字を見て、とっさに「ヒサヤ大黒堂」の本社ビルがこんなところに在るのかと考えたのだった。
うーーーん、その頃のボクって純朴なる九州の片田舎からやってきたケツの青い若者であったんだなぁ、と、今朝の新聞をトイレの便座でイキみながら読みつつ、ひとしきり思い出に浸ったりしたのであった、、、。
8月 26日:
・本日のニュースから
「小中高教室冷房完備へ」・文部省方針・公立校に助成
つまりガキらの教室にエアコンを導入するってことらしいが、んー???だったら夏休みって何のためにあるんだろうか? 暑い夏は、蒸し風呂状態の教室で勉強どころではないから思いっきり休もうってことじゃなかったのか?
子供ってのは、せめて高校卒業するまでは、夏は暑さをがまんして大汗かいて体を鍛えなければ、ますますカラダが自然条件に耐えられない脆弱なもんになってしまうだろう。
それに暑さでも寒さでもなんでもかんでも、まぁこんなもんやろしゃーないと我慢することを若いウチに心身ともに覚え込んでおかなければいけない。
ま、深読みすると、家電メーカーもおしなべて大不況のまっただ中で四苦八苦しているらしいから、もしかしたら、全国の公立学校の全教室にエアコンを導入するとなると膨大な需要が生まれるのであるからして、つまりは、苦境の家電メーカーを救済するための一種の「公的資金導入」なのかもしれない。
先日、NHKで松下電器のドキュメント番組やってたけど、かっては世界に冠たる日本経済の象徴とも云うべき「大松下」が、今や数千億円の赤字企業で大リストラの真っ最中、番組では、中国の家電量販店の店長に罵倒に近い言葉で責め立てられて立ち往生の松下社員の姿が象徴的に描写されていたけど、何で今更の公立学校へのエアコン導入ってのは、そんな巧妙な「公的資金導入」をやらなければならないほどに、ニッポンの家電メーカーは大ピンチであると云うことなのかもしれない。
本日のニュースも深読みすればするほどに浮かび上がる我が国の「惨状」ではある。
8月 25日:
・デジタルビデオ
うーーん、買ってしまいました朝一番でビクターのGR−DVP7。
今日はコレで一日中遊んでます。
ビデオ編集はファイアーワイヤー接続が出来るiMacが便利で、iMovieもMacならではの直感的操作感で簡単ですね。
SDメモリーにmpeg4の動画を記録出来るので、SDメモリーのスロットが標準で付いている我がlet' Note Lite PRO だと直ぐに取り込むことが出来ます。しかし付属の動画編集ソフトが使いにくいです。
ストリームでの事務所紹介とか試しにやってみようかなと思います。
もう寝なければ明日がしんどい、、、、、、。
8月 24日:
・デジタルビデオが欲しい、、、、、。
最近収まっていた「物欲」がふつふつと沸き上がり、今度はデジタルビデオが欲しくなりました。
iMacだと標準装備のファイアーワイヤー(WindowsPCで云うところのIEEE1394)でデジタルビデオと接続して、iMovieで編集出来るのであるからして、コレを使わない手は無いと云うか、要するに新しいメカで遊びたいのであります。
思えば、われわれ50歳前後のオジさんってのは、物心ついた頃から自作が当たり前のゴム動力のヒコーキとか少年月刊誌の付録の紙工作とかが身近なものだったし、小学校に上がる頃から始まったプラモデル全盛時代の申し子であり、はたまた学研の付録の第一世代でもあるのだ。
それから実のところ、70年代末のマイコンブームと80年代初期の8ビットパソコン黎明期においては、いち早く飛びついた世代でもある。
つまり新しいメカには目がないとゆーか、なんかこーぞくぞくしちゃうんですね。
で、長年使い倒したキャノンの8ミリビデオがバッテリーがヘタって野外の使用が不可能になって幾星霜、ここらで新しいビデオカメラが欲しくてたまらないようになったのである。
ここ1週間ばかり電気量販店を徘徊したり、各社のカタログを読み込んだり、インターネットで情報収集したり、今が一番楽しい頃合いなのかも知れない。
ショップでは近寄ってきたらウザいだけの店員さんですが、あれこれ質問したりすると以外と重要な情報を聞くことが出来きますね。いやー勉強になりました。
まずは携帯性重視での機種選定を考えているので、現在の第一候補は、ビクターのDVP7です。
どうしようかな、、、、、、、、。
8月 23日:
・本日のカラオケ曲目
今日は盆明けの精進直しとゆーか、よーするになんか理由つけてお酒が飲みたかっただけなのだが、ちーとばかり呑んで、ほいでもってカラオケに行きました。
カラオケではマイク独占状態で歌いまくりました。
今日、歌ったのは次。
1:ラストダンスは私と : 越路吹雪
2:Nowhere Man :The Beatles
3:たどり着いたらいつもどしゃ降り : モップス
4:赤いハンカチ : 石原裕次郎
5:網走番外地 : 高倉健
6:白い珊瑚礁 : ズーニーブー
7:グッド・ナイト・ベイビー : キングトーンズ
8:涙をふいて : 三好鉄生
9:石狩挽歌 : 北原ミレイ
10:どうにかなるさ : かまやつひろし
11:悲しき街角 : デル・シャノン
12:上を向いて歩こう : 坂本九
以上、歌い続けました。
ま、オレの場合、トリは「上を向いて歩こう」で締めることになってます。
ただ今、いつものように、丸源30番ビル1階のコーヒーショップにて 、我がホームページの更新中なり。
毎度ながら周囲の人間模様がとっても面白いです。
8月 22日:
・「サラ金ビル」のエレベーター
昨日とおととい、2日続けてJR小倉駅の1棟全部が「消費者金融」各社の支店などが入居しているところの通称「サラ金」ビルに行って来ました。
多重債務状態の債務者とその連帯保証人に伴って、某大手消費者金融会社の支店に同行したのですが、勉強になったと言うか、興味深いことばかりではありました。
私はオブザーバー的な役回りであったのですが、それでも、「第三者」として少しばかり訪問の意図を「説明」しなければなりませんでした。
そこの支店長は、きちんとした対応をしてくれて好感が持てました。
「当事者同士」が話し合っている間は、サラ金窓口の端っこに座っていろいろ観察していたのですが、窓口を訪れる人は、ほんと、フツーのかたがたばかりでしたね。
入り口近くにある自動支払機(ATM)には、ひっきりなしに来訪があるのですが、へーこんな人もサラ金のお世話になっているのかと思ってしまうようなきちんとした身なりの管理職風中年サラリーマンのかたもいました。
用件を終えて、エレベーターに乗ったとき、すでに先客が二人いました。
どうやら上の階のサラ金に行った帰りのようでしたが、その60歳前後に見えるご婦人おふたりは、いずれも疲れ切った悲しげな顔つきでした。
もうどうしようもない多重債務の螺旋階段のただ中で、為す術が尽きてしまったかのような茫然自失な表情だったので、思わず自分の名刺を渡そうと思いましたが止めました。
ビルを出て見上げる青空に太陽光線はまだ夏のものでしたが、ひとしきり吹き抜ける風は、カラリと乾燥していて心地よさを感じました。
借金で苦しむかたがたにも、きっとこの涼風の気持ち良さを心の底から感じる時が必ずやってきます。
ご相談、お待ちしております。
8月 21日:
・朝の冷え込みがキツかったです、今日は。
今週に入ってからは、猛暑もようやく峠を越えたようで、北九州では湿度の低いカラリとした天候になっている。
夜も窓を開けているとエアコンがなくても苦痛ではなくなった。
で、窓を開けたままで寝入ったところ、午前5時頃であろうかまだほの暗い早朝に、涼しさを通り越した寒さに思わず目が覚めて起きあがってしまった。
真夏と同様に、パンツとTシャツだけでゴロンと寝ていたのだけど、ちょっと寒かったですね。
そのせいか、なんとなく風邪のひき初めのような体調で、熱っぽいのか体がダルいです。
・本日の雑誌
「新潮45」9月号から:「沖田浩之・封印された最後の告白」
うーん、なんだろうな、読後はちょっと涙目になってしまいました。
自殺した「ヒロくん」の実父も祖父も自殺していたと云う。そして、彼の唯一の兄も今年、自殺し、彼の「家系」は途絶えてしまった、、、、、、。
彼の「悲しみ」は自死にただひたすら向っていくほどに「純粋」であったのだろうか。
悲しみは、幾分、汚れていたほうがいいのだ、と思う。
怠惰になすがまま日々呑んだくれては「汚れっちまった悲しみ」を噛みしめるオジさんたちは、きっと明日も、しぶとく飲んだくれているんだろうな。
8月 20日:
・「テルミン」って何?
近頃、そこかしこのメディア媒体で見聞きする奇妙なネーミングの「テルミン」について多少気にはなっていた。
なんだか「原始的なシンセサイザーみたいな電子楽器のようなもの」らしいと言うことは、私のアタマにインプットされていたが、あまり深くは追求せずにいたところ、先日の日曜日の夜、東京12チャンネル系のテレビ局でビーチボーイズのブライアン・ウィルソンの特集番組をやっていたのをなにげに観ていて、ようやく「テルミン」がなんなのか理解したのであった。
なーんだ「テルミン」って、われわれ50代前後のオジさんには、昔からお馴染みの「楽器」だったんだな。
古いところでは、昔の白黒のSF映画なんかで空飛ぶ円盤から宇宙人が登場するシーンなんかに必ず流れていたあのやたらキモいマイナー調の音楽と言うのか、たとえて云うと、ガキの頃よく曇ガラスをツメでキコキコこすって出した音と、たて笛で出す高音とをミックスしたみたいな音と言うのかなぁ、アレですよアレ。
それから、ビーチボーイズの傑作「グッド・バイブレーション」でヒュルヒュルヒュルゥーーーと聞こえてくるあの音と言えば判るでしょうか。
「テルミン」なんてもう40年くらい前からよく知っている我々オジさんは、若いワケ知り風のニイちゃんが「テルミン」についてエラソーかつ御大層にひけらかしていたりなんかしたら、バカやろうオレは「テルミン」なんて40年以上前から知っとるわいと一喝してあげましょーね。
8月 19日:
・私のコード番号
本日、住民票コード通知票が送達されてきた。
オレもこれでただの数字の文字列で表現されっちまうのかと思うと、ひとしきりはかない感慨が沸いてこないこともない。
しかし、よくよく自分のコードを見つめてみると結構綺麗な「数字表現」であることに気付いた。
私のコードであるが、11桁の頭から1番目と2番目を足し算すると10になる。次の3番目と4番目も加算すると10になる。
その次の5桁目と6桁目はゾロ目であるばかりか、7桁目と8桁目もゾロ目、おまけに9桁目と10桁目もゾロ目であり、残り最末尾の番号が1である。(さて私のコードは何でしょうか? ここまでバラすと私の住民コードをある程度類推することも可能であろう。)
そのせいかしら自分のコード番号は、パッと見、とても美しいのである。ハハハ、自己満足。
オレは、この通知票を破り捨てたり、返還したりはしない。
毒を喰らわば皿まで、とゆーワケじゃないが、アタマをとことんひねると、一般市民にとって、あっと驚くプラスの面があるのではないだろうか。
皆さん、「陽転思考」で行きまっしょい!
ところで、ウラの世界のアウトローなかたがたは、この住民コードのとっても便利な活用方法を編み出して、すでに有効利用しているんだろうなぁ。
8月 18日:
・本日のケーブルテレビ
朝、出がけに見たのが42ch(チャンネルNECO)で鈴木清順監督の「春婦伝」。野川由美子っていいな、なんてエッチな顔つきなんだろう。顔だけで煩悩のウリウリがぞくっと来てしまう女優って野川由美子だけじゃないか。
用事を済ませて帰ってきた夕刻、23ch(ヒストリーチャンネル)で戦争ドキュメント「戦争の光と影」を見る。第二次大戦中の米軍撮影のカラー映像が貴重。米軍の前線用食料の内容とか「性病」防止用啓蒙映像などとても興味深いものばかり。
ビールを飲んで一眠りする間に、同じ23chで小林正樹監督の「東京裁判」を録画。
寝起きに41ch(スーパーチャンネル)で「サタデーナイトライブ」を見る。1970年代の中頃のものだろうか、まだジョン・ベルーシは端役みたいな感じである。
今、「ヒストリーチャンネル」で「名将たちの戦場」第5話「マンシュタイン対ヴァツゥーティン」を観ている。「クルクス大戦車戦」についての詳細なドキュメントである。そうかドイツ軍の戦車「バンテル」は、ソ連のT34戦車のコピーだったのか。
あと深夜の61chがオジさんには「むふふ」なのである、、、、、。
と言うワケで、結構、ケーブルテレビも面白いです。
8月 17日:
・本日の映画
週末恒例のレイトショウですが、本日は「タイムマシン」を観てきました。肝心のタイムマシン本体を組み立てるプロセス抜きに、あーーら不思議、いきなりピカピカのタイムマシンが出来てしまうのが不満でしたが、ストーリーは結構面白かったです。
映画は「愛に始まり、愛に終わる」のですが、「過去は変えることは出来ないが、未来は変えることが出来る。それは現状を変革したいと言う人間の意志と行動によって可能である。」と言うようなメッセージが込められていると言えなくもないです、、、。
・はぁー?「24時間テレビ」ってまだやってるのか!!
コレって22年くらい前からやっているんじゃないのかなぁ、「愛は地球を救う」だと!!エエ加減にせぇよワレぇ!!!!!!!
この22年間に、パレスチナでアフリカでイランイラクでユーゴスラビアでアフガンで東チモールでチェチェンでその他もろもろの諸国地域で一体何十万人の一般市民が殺されたことだろうか。
オマエら結局なんにも救えなかったのじゃないのか!!!
黄色いTシャツ着込んだ脳天気なアホどもを見て、怒りがこみ上げる。
1年に一回、自己満足に過ぎない「善行」を平和ボケ気分で「施し」をしたからと言って、どーです皆さんワタシたちこんなにイイことしてますってなノリでハシャぐなこのバカどもよ!!
8月 16日:
・今日は事務所で
お盆休み明けの事務所はそれなりに人の行き来とか電話とかが絶えない状態ではありましたが、おおむね補助者におまかせでなんとかなる様子であったので、私は愛用のモバイルノートパソコンのメンテをしました。
ヤフーオークションで2500円で落札した仮想CDドライブ・ソフトの「ヴァーチャルCD・6」をインストールして、先日アキバで購入したゼンリンのCDROM10枚組の全国版地図ソフト(4000円でゲット)を導入しました。
愛用のモバイルPCは、Panasonic の Let's Note Lite PRO ですが、1Kg以下の軽量ながら非常に使い勝手の良いマシンでバッテリー駆動時間が実働で5時間以上、これにAir'Hでどこでもインターネット状態であり、これって「ユビキタス・コンピューテイング」の実践だなあと自己満足。
でも軽量な分、FDドライブもCDドライブも付いていないので、LAN経由でサーバマシンのCDドライブからのインストールになります。ちょっとコツが必要ですが、仕組みが判っていればなんとかなります。
ネットワークの信頼性と使い勝手がWindows XP から格段に向上したことを実感しつつ、なんとか導入完了。
今回、導入したゼンリンの地図ソフトは全国の「市」については「ゼンリンの住宅地図」同等の詳細地図なので、これで地図無しでも全国を歩き回れる(?)ようになりました。と言うよりかノートPCのハードディスク20Gの容量を持て余し気味だったので、HDにじゃんじゃん丸ごとCDデータをぶち込みたかったのであります。
8月 15日:
・終戦の日に想う
昨日、録画予約しておいたNHKの終戦特集「幻の大戦果:台湾沖航空戦の真相」を観た。
現況を確認しないままで、報告された不確実な「戦果」を期待値で累積し、本当はアメリカ海軍の航空母艦の大船団にはほとんど被害を与えていないにも関わらず、あたかも敗戦濃色な戦況を大逆転するかのような「大戦果」として「大本営」が日本国民に公表してしまった経緯についての優れたドキュメントであった。
その結果、数多くの日本の兵士が更に死んでゆき、国民もまた犠牲を重ねたのである。
この番組を見ながら、これって現在のニッポンと全然変わっていないではないか!と強く感じ入る。
日本政府のバブル崩壊後の金融政策しかり、古いところでは山一証券や長銀などツブれるはずのない金融機関の破綻、新しいところでは雪印に日本ハムなど、まるっきり「大本営」と同じ組織的な隠蔽体質だと考える次第。
政府の無策、自治体の無策、末端の公務員の無策、企業経営者の無策によって、これから幾百万の我が国一般市民の「犠牲者」が積み重ねられるのであろうか。
暗澹たる思いの終戦の日ではあります。
8月 14日:
・無事帰着
今日は朝10時前にホテルを出て、昔の土地カンを頼りに、書写山のふもとあたりに行きました。
我が母校(と言っても中退ですが)の兵庫県立姫路工業大学の現在の姿を確認してみたかったのですが、なんかかなり規模が大きくなってましたね。
31年前の昭和46年に入学した時は、これでも大学か!?と思いましたが、現在はすっかり大学キャンバスと言えるような様子でした。
神姫バスのあのオレンジ系統のツートンカラーのバスも見れたし、一応、満足しつつ山陽道の姫路西ICから北九州方面に向かいました。
途中、広島に立ち寄って、原爆ドームと平和記念公園に向かい、あらためて原爆被災者に黙礼してきました。
午後5時前に広島を後にして帰路に着きましたが、途中、あまりの眠さに耐えきれず、パーキングエリアで小一時間ほど居眠りしました。
ようやく、自室に帰り着いたのは午後10時前でした。
総走行距離1000キロとちょっと。36時間で中国、四国、それと兵庫県をぐるり一巡してきました。
なんとなく達成感があります。
瀬戸大橋、鳴門大橋、明石大橋ですが、サービスエリアではもっとゆっくりしたかったですね。それにしても大きな橋でした。
帰りに関門橋を通過するとき、関門橋が小さく感じられました。今までは関門橋ってでっかいなぁと思っていたのですが、、、、、。
これからビールをたらふく飲んでぐっすり寝よう。
8月 13日:
・遠くへ行きたい、、、、。
朝、病院に行ったあと、遠くへ行きたくなりました。
まぁいいか、お盆休みだもんな。
8月は既に9件の新規申立を完遂したことだし、あとは16日以降の段取り。
と言うワケで、ふらり北九州都市高速道路に乗り込んで、一路東へ向かいました。
結局、山陽道を山口県、広島県、岡山県と東進、倉敷ICから瀬戸大橋で四国は香川県へ、そこから国道11号線と高速道路を乗り継いで鳴門大橋で兵庫県の淡路島へ、明石大橋を渡って北上し、三木ジャンクションから再び山陽道に乗って西進、姫路東ICを降りて、ひとまず姫路にて宿を取りました。
ただ今、姫路駅南のホテルの一室にて書いてます。
さて、あしたはどうしましょうか。このまま、まっすぐ帰るのは勿体ないような気がします。
とりあえず明日は、書写山にロープウェイで登ろうかな。
8月 12日:
・明日から一応、お盆休みです。
しかし、午前8時半に病院(北九州医療センターの呼吸器内科)の予約をしているので朝6時45分には起きないといけません。
今年の初めからずっと4週間に1回の割合で通っております。風邪が治っても咳が止まらないので診て貰ってからずっと通うはめになってしまいました。
いろいろ薬を代えたり、体をスキャンしたりしてようやく「咳喘息」らしいと言うことになりました。
ま、4週間に一度、薬を貰うために通院するようなものですが、50を境に病院とすっかり馴染みになりました。
現在、事務所近くの内科医院には2週間おきに通って高血圧の投薬治療と定期検診をしてもらっています。
実は今日も内科医院に行ったのですが、血圧は上が118で下が81でした。まあまあかな。
前回の血液検査の結果も出てましたが、ガンマGTPが下がったけど104ぐらいでまだ高いです。中性脂肪は大丈夫でした。
ま、そんなところで、健康第一ですが、なかなか大変です。
では、また。
8月 11日:
・北九州地方は昨日から雨模様
先ほど夕方のテレビニュースを観ていると、関東地方では今夏最高の暑さだと云う。映像では道行く女性たちがハンカチで一斉に汗をぬぐっていて、本当に暑そうです。
しかし、こちら北九州では昨日から曇り空で時々雨が降っています。今日の午後は土砂降りでした。どうやら北九州は高気圧の周辺部にあたっているようです。
雨が降ったら涼しくなったかと云うとそうではなくて、典型的な高温多湿状態でじとじとしてキモチ悪いですね。
そんなジトジトな午後、お盆休みはどうしようかなと思いをめぐらすうち、北海道に行きたいなあと思いました。
北海道へは、8年前ぐらいに1泊2日の強行ツアーで函館に行ったことがあるだけです。
九州の人間にとって「北海道」ってある種のあこがれの土地でもあります。
北海道の雄大な自然を体験したいなぁ。でも、九州は阿蘇山近辺とか霧島周辺とかも神秘的で雄大なスケールですよね。
さて、明日も一日、気合いを入れて頑張ります。(自分で云うのもナンですが、午前9時から午後7時まで超過密スケジュールです。)
8月 10日:
・本日観た映画
早速「トータル・フィアーズ」を封切り日に観てきました。
例によってワケの判らない邦題であるが、原題は"The Sum of All Fears" です。この言葉はこの映画の最後のほうで「キーワード」的に使われております。字幕では「恐怖の総和」と訳されてました。
最近観た映画では、無駄なく張りつめた緊張感が持続する「上出来の映画」ではありました。
映画では原爆が本当にアメリカのボルチモアで爆発してしまうのですが、衝撃波の描写は迫力がありましたが、爆発の瞬間の光線とか無かったですね。
あと被災現場の描写とか被災者(被爆者)の様子とか、こんなもんじゃなかろーと思いました。放射能汚染とか全然関係なく主人公が被災現場を走り回ってるし、その放射能後遺症もないみたいだし、この点は不満です。
しかし、近い将来、本当に原爆(核兵器)の炸裂があるのではないかと言う「予感」があります。
それが今年の秋、イラクのどこかでなければいいのですが。
8月 9日:
・もしも、8月9日のあの日、
1945年8月9日、マリワナ諸島はテニアン島の米軍飛行場を飛び立ったB-29原爆搭載機「ボックスカー号」は、午前9時44分頃、広島に次ぐ原爆投下第二目標都市である小倉市に差し掛かった。投下目標地点は小倉造兵廠である。当時の小倉は日本有数の一大軍需工場集積地であった。
おりしも前日には小倉市より数キロ西方にある八幡製鉄所とその周辺部に対する大規模な空襲があり、その余燼の煙が小倉上空にまで漂っていた。
当時、3発しか製造されていなかった原爆の最後の1発についても、広島同様に目視による精密爆撃投下が厳重に命令されており、爆撃手は小倉上空で3度、目標地点への投下を試みたが八幡からなびく煙により妨害されて果たせなかった。
高度1万メートル近い上空を時速数百キロの速度で進行しながら、爆弾を正確に目標地点上空500メートル上空で炸裂させるためには、目標地点の遙か前方より目標を確認した上で、しかるべき投弾のタイミングで実行しなければいけないのであるから、八幡から流れてきた空襲火災の余燼の煙とは云え、3度も試みた小倉への原爆投下を妨害するに充分であったのだろう。
こうして原爆搭載機ボックスカー号は、小倉上空で45分間も滞空した後、原爆投下を諦めて、予備の第三目標である長崎市に向かったのであった。
長崎上空はあいにく雲に覆われていたが、雲の切れ間に長崎市街を望見した爆撃手は慌てるようにして原子爆弾を投下した。
爆弾は、本来の目標地点よりも北側に3キロもはずれて、学校や病院そして民家がたちならぶ「文教地区」の浦上天主堂上空500メートルで炸裂したのである。
つまり、あの時、8月9日に小倉上空で原子爆弾が炸裂しなかったのは、ほとんど奇跡的とも言える歴史的偶然であったのである。
われわれ北九州市民は、この事実について認識しているだろうか。
長崎の原爆は爆縮型のプルトニュウム原爆であり、広島の砲弾圧縮型のウラニュウム原爆よりも威力が大きかった。広島原爆が15キロトン、長崎原爆は20キロトンの威力であった。長崎のほうが広島よりも死亡被害が少なかったのは、山の多い地形と爆発地点が長崎市の中心地より大きく北に外れたからにすぎない。
小倉の「爆心地」から半径3キロメートル以内には、現在の小倉北区のほぼ全域が入る。そして、そこは概ね平地である。
もしも、あの日、8月9日の朝、小倉に、プルトニュウム型原爆が正確に投下されていたならば、その被害は広島よりも大きなものになったであろう。
現在の私の事務所は、小倉の原爆投下目標地点からわずか700メートルの場所にある。
小倉原爆が現実であったなら、事務所周辺は跡形もなく破壊された原野となっていたことであろう。
しかし、もう二度と小倉には原爆は落ちてこないのだろうか。
ときどき小山に登って北九州市内を望見しながら、そこに立ち上る原子雲を想像することがある。
われわれの父や母の身代わりとなった長崎の原爆被災者のかたがたに黙祷。
8月 8日:
・あまりに汗をかき過ぎたものだから、、、、
体中の水分が搾り取られ、大腸内の水分吸収効果もその極限にまで高められたのであろうか、その当然の結果として、ウンチがカタい。
アレがカタくなるとどーゆーことになるかと言ふと、いわゆる「お通じ」がワルくなるのであって、すなわち「出難い」状況に直面するのである。
出難いジョーキョーに直面するとどーなるかとゆーと、エアコンなど効かないウチのトイレ個室にて汗みどろになりながら、ウンウンいきんでもちぃーっともお出ましにならなくて、あんましキバり過ぎると、「菊の御門」がプックリと突き出てしまうコトもないではなく、いやはやナンギやなぁ。
8月 7日:
・こんなに暑い時には、、、、
なぜか、天才マンガ家であった谷岡ヤスジのマンガを思い出してしまう。
今日は本当に暑かったです。お昼ごろ事務所を出て近くの銀行に行ったのですが、めまいを感じてしまいました。
運動不足に寝不足が重なっている状態なので、気をつけなければいけません。
今日も既に午前2時(暦の上では8月8日です、、、)になってしまった。
相談者に対する対応がなんだか一本調子になってきた気がする。折角、勇気をふりしぼってウチの事務所に来てくれた相談者に対してエラソーにしてはイケナイ。自戒するところではある。
しかし、なんとかして上手く借金をチャラにしたいとか、こっそりココだけは返済したいってのはナシですよ。
さて、お盆休みですが、13、14、15日は一応休もうかなと思いますが、無理かも。
お盆の日程は公式には休みと云うことにして、実はひっそりと事務所に籠もっているかもしれません。
8月 6日:
・8月6日に思うこと
ボクがまだ幼い頃であるが、小学校の教員をしていた母が日直で日曜日の職員室にひとりで居る時には、よく遊びにいったものである。
先生たちがいないガランとした職員室をあれこれ探索するのは実に楽しいものであった。
そんなとても贅沢な日曜の午後のひととき、ボクは職員室の本棚の一角に版型も大きくて分厚い本を見つけた。なにか引き込まれるようにしてその本を両手でよいしょとばかりに取りだして、ぱらぱらめくってみると、それは写真集であった。
瀕死の重傷と大火傷を負った人間の真の姿、そして、おびただしい「死体」の写真を見たのは、それが初めてであった。
写真集の表題は「原爆の記録」。
ボクはおさなごころに強烈な「恐怖心」を感じたまま、その写真の1枚1枚が脳裏に刻印され、いつまでも忘れられなかった。
ボクの原爆についての「原体験」はこうして始まったのである。
中学生になってから、「原爆の子」や「原爆体験記」を読んだ。あの時の「写真」の記憶はよりいっそう鮮明な記憶として刻印されることになった。
高校生の頃に読んだ原民喜の「夏の花」三部作には、「破滅」前の「日常性」に潜む「予感めいたはかなさ」の描写に強く惹かれるものがあった。
8月6日の今日、思い出すあれこれではある、、、。
黙祷。
8月 5日:
・昨日、アキバにて
東京滞在最終日、アキバをさらーっと回ってきました。
まずはMacジャンカーの定番ショップ、東京ラジヲデパート地下1Fの「秋葉原エレクトリックパーツ」とその隣近所なお店をチェックして、以前までクロスオーバーとか湘南通商があった神林ビルあたりから東京三菱銀行の通りに直進していたのである。
昔、神林ビル周辺にはあのヘッドギアを装着したオウムのニイちゃんらが得体の知れぬ大声を上げながらオウム系のパソコンショップの宣伝ビラを撒いていたものであったが、昨日は、目つきのあまりよろしく無い若い男女集団(その数20人くらい)が沿道両脇に点々と待ちかまえてビラを配っていた。
オウム(おっと今はアレフって云うだっけ?)にしては、どうも顔つきが違うので、1枚チラシを貰ってみると、なんとそれは違法コピーCDの案内であった。
1枚のCDに超有名なソフト最新版が数十本てんこ盛り状態で5千円と云う値段。新品換算すると100万円はくだらないソフトウェアの集積状態である!? そして、ビラ配り集団が仲間うちでしゃべるのは明らかに中国語みたいである。
うーーーん、白昼堂々、こんなことやっちゃってイイのだろうかと思いつつ、路面販売のジャンク露店を冷やかし半分に見て回ったのであった。
そういえば、中古のデジカメを道路脇いっぱいにご開帳しているイラン人みたいな御仁がいて、客だろうかカメラを手に取りあれこれ商談しているこれまた異国の方々がいたりなんかして、そのやり取りを眺めてるだけで楽しかったのである。
いやはやアキバってホント、病みつきになる場所です。
8月 4日:
・東京より帰着
羽田発午後4時20分発JAS便で午後6時前には北九州空港に無事帰り着きました 。途中かなり乱気流状態の場所に差し掛かってガクガク機体が揺れましたが、大丈夫でした。
でも、地上7500メートルの上空でいきなりガクガク来ると、もしかしてこのまま墜落かなと考えないこともないし、要するに、日本の8月は、御巣鷹山の夏であり、原爆被災の夏であり、終戦の夏であり、満蒙開拓団の悲劇の夏であり、その他もろもろの「死者たちの夏」でもある。死者がオレを呼んでいるのかなぁと、、、、、。
まぁ、50歳を過ぎてしまってからは、ココロの奥底ではいつ死んでもイイやと言う「観念」が存在しているワケだし、なんだろうなあ、ヒコーキのガクガクが一種の諦念じみた「快感」だったりする、、、、、。
さて、明日からは、怒濤の1週間が始まります。なんとかヤリ抜きますので宜しく!
ところで、「資料」請求はメールでも受け付けますが、「相談」については、必ず「電話」(事務所電話=093-562-6960)でお願いします。
うーーーん、インターネット&電子メールは便利だけど、現在、パソコンでインターネットいじれる時間が極端に少なくなっています。
相談は直電話で頂けるとありがたいです。宜しく。
8月 3日:
・渋谷の唐そば
私にとって北九州市で一番美味しかったラーメンは八幡西区黒崎の「唐そば」のラーメンだった。
メニューはシンプルでラーメンに大盛りラーメン、白飯のおにぎりにゆで卵。これだけである。
抑制の効いたトンコツ味が絶品のスープに、コシのある中細麺がこれまたここだけの妙味、具はキクラゲにモヤシ&青ネギ、それから脂身の部分を残して深みのある味わいのチャーシューが2枚。
これがまた銀シャリの握り飯に合うんだなぁ。(合ったんだなぁ、、、と過去形ではある。)
10年前までラーメン350円におにぎり1個50円。老若男女&職業のあれこれを問わず「唐そば」のラーメンの愛好者は多く、いつも狭い店内は満席状態であった。
しかし、、、、その「唐そば」は黒崎の地に今は無い。
「唐そば」のオヤジは高齢であったが、いつのころか若いニイちゃんが店内から丸見えの調理場をウロチョロしておったのだが、このニィちゃんがオヤジの息子で、オヤジの跡を継いで「唐そば」ののれんを黒崎で守ってくれるんだぁとばかり思っていたのであった。
ところがなにをトチ狂ったかその息子は東京渋谷に「唐そば」の支店(?)をオープンしたのであった。この時のいきさつは全国ネットの民放テレビ局で1時間番組で放映されたので覚えているムキもいるだろう。
テレビ放映のあと、黒崎の「唐そば」は行列の出来る店になった。しかし、肝心の麺がひ弱な出来であり不味くなっていった。
それからほどなくして黒崎の「唐そば」は閉店してしまった。
東京に行くたびに渋谷の「唐そば」に行きたいと思っていたが叶わず、本日ようやく久しぶりに「唐そば」のラーメンを食べることが出来た。
カウンター内の調理場には、見覚えのあるあの長男がいたのだが、チラリと私と目が合った。
出てきたラーメンの外見は昔馴染みの唐そばラーメンとまったく同じであった。
まず、スープを味見。うーーん、違うんじゃないか、、、、。何度もすすってみたが、やっぱり違う。美味しくない。
それから麺を噛みしめる。おいおい何だコレは!? ゴムでも食わされているような食感である。
チャーシューはまずまずの合格点か。
しかし、トータルバランスとして、あの黒崎時代の「ラーメン」とは遠く及ばない出来具合であることだけは確かである。
不思議なことに、他の客は結構うまそうに食べているんだなぁ。
東京のヒトって不幸だなぁ、、、スープを最後の一滴まで飲めないまま、そんな気分で店をあとにした。
今日も東京は暑く、それでもいろんなところで行列を見ました。
さて、明日は恒例のアキバディープゾーンのチェックに行きましょうかね。
8月 2日:
・突然の雷雨
本日は北九州空港午前8時30分発のJAS便で一路東京へ。北九州の朝は一点の曇りもない快晴でした。
四国上空あたりから雲が多くなり、東京は曇りと言うより全体的にくすんだ、昔の言葉で「スモッグ」に覆われたような感じでした。
お昼の12時から渋谷区青葉台の行政書士会館の地下ホールにて会議。地下なので窓が無いのですが、午後3時すぎあたりから雷鳴がゴロゴロ。
午後4時に地上に出ると、ものすごい土砂降りでした。
いわゆる夏の「夕立」なのかと思いしばしの辛抱と待つも、1時間経っても雨足が変わず、歩いて10分の懇親会場へタクシーで向かいました。
雨上がりの東京は、異常に蒸し暑く、吹き出す汗でどろどろ状態でした。
こういう脱水状態の時に脳梗塞になるのだろうかと心配になり、水分を多量に補給しました。(ビールでしたが、、、、。)
さて、東京での二日目は昔の思い出の場所を散策しょうと思います。
8月 1日:
・暑い、、、、、です、、、、、。
うちの事務所は南西向きなので、正午を過ぎたあたりから直射日光が事務所の窓に差し込み始め、午後2時から午後4時にかけてピークをむかえる。
しかも事務所の天井のすぐ上はスレート葺きの平屋根なので、事務所内部は天井と窓側からの強烈な熱照射によって釜ゆで状態になり、その上、事務所内の発熱機器(常時稼働パソコン4台、液晶ではない17インチブラウン管モニター3台、コピー機1台など)の熱量は数百ワット相当に達しており、エアコンがさっぱり効きません。
今年は扇風機を1台導入したので、かなり改善されたが、午後3時前後はダメですね。
それから、福岡地裁小倉支部での自己破産受理件数ですが、「受理番号」ベースで計算してみると、対前年比150%を越えていました。つまり去年の1.5倍の勢いで自己破産件数が増加しているのであります。
いやはや、暑い夏ではあります。
明日、明後日は東京の片隅からモバイル環境での更新になりますので、宜しく!
東京の都心部は実測気温よりも強烈に暑いだろうなぁ!!
・「れのん亭日乗」2002年7月
・「れのん亭日乗」2002年6月
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